秦氏千年の計38 寵臣・三輪 逆
●次へ→ ←前ヘ■ この非常識な行為に、三輪 逆みわの さかうは兵衛つわもののとねりを招集し、殯宮もがりのみやの門を固く閉じて侵入を阻はばみますが、穴穂部皇子あなほべのみこは七度ななたびに渡り夜這よばいました。 …
「聖徳太子」は、後世の尊称・諡号《しごう》。
厩戸皇子《うまやどのみこ・うまやどのおうじ》。厩戸王。上宮王
飛鳥時代の皇族・政治家。
用明天皇の第2皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。
推古天皇の甥で、皇位継承順位第1位の皇太子として実務を行う。
渡来系の人材を登用。
冠位十二階を定め能力による人材登用を導入。
十七条憲法を制定。
遣隋使を実施し国書を持参させた、隋書には「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言が見られる。
朝鮮半島の伽耶《かや》国を失った日本は、外交のため遣隋使を送り。大陸の新しい文化と共に仏教の導入を積極的に行った。
ただ、当時の仏教が現在の受け止められ方と同じであったとは限らない。
渡来系の人材の中に東方キリスト教の信者が居たと考えられ、その結果
「厩戸《うまやど》で生まれた厩戸皇子」と呼ばれるなど、キリスト教伝来の影響が見られる。
当時の日本人にとって、仏教とキリスト教の差は、さほど無かったのかも知れない。
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●次へ→ ←前ヘ■ 敏達びだつ14年(585年)3月、「廃仏派はいぶつは」の物部守屋もののべの もりやは、 「疫病やくびょうは仏教信仰のせい」として、大連おおむらじの権限を乱用し、 蘇我馬子そがの うまこが …
●次へ→ ←前ヘ■ 聖徳太子しょうとくたいしは「厩戸うまやど」でお生まれになられた厩戸皇子うまやとのおうじとしても知られるのですが、太子たいしを表す御名おんなとして、 「豊聡耳とよとみみ」との表記の方が多く見ら …
聖徳太子しょうとくたいしと百済観音くだら かんのん(聖徳宗総本山 法隆寺) 法隆寺ほうりゅうじは、聖徳太子しょうとくたいしの御父君にあらせられる用明ようめい天皇の発願ほつがんによって、建立こんりゅうされました。 です …
●次へ→ ←前ヘ■ およそ歴史に「忍者」と言える者が初めて登場するのは『神武じんむ東征とうせい』、もしくは、 日向ひむかより大和やまとへ遷都せんとする『神武じんむ東遷とうせん』に際し活躍した「道臣命みちのおみ …
●次へ→ ←前ヘ■ 明治10年(1877年)1月11日、かつて薩摩と呼ばれた鹿児島に川路利良かわじ としよしの許可の元、鹿児島出身の中原尚雄なかはら なおおら警視庁職員24名が帰郷ききょうします。 西郷さいご …
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徐福じょふく 伊賀いがの歴史書『忍秘伝にんぴでん』に出てくる御色多由也おいろたゆやは徐福じょふく自身か、或いは彼と共に日本へ渡来した人物と云われる。 下野げやする西郷隆盛さいごう たかもりに付いて行く者も多かった …
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