西暦655年、朝鮮半島では百済と高句麗が連合して新羅に進行しました。
これに新羅はチャイナ、当時の唐王朝へ恭順の意を示し救援を求め、唐の冊封国となります。
唐を宗主国とする従属の道を、新羅は選んだのです。
チャイナは幾度も高句麗へ出兵した歴史が有り、隋王朝の高句麗遠征は、西暦598年から614年まで4度にわたって行われました。
しかし、紀元前1世紀に建国している高句麗は強くて落とせません、それは唐王朝(西暦618年ー907年)になっても同じだったのです。
そこで、高句麗の攻略を一旦は持ち越し、高句麗と百済の連合に攻められている新羅が、唐をたよって来るのを待ちました。
そして新羅を属国にすると水軍を用いて黄海を渡り、朝鮮半島南西部の百済へ水路を攻めます。
百済最後の王、義慈王は相手をあなどって政治をおろそかにし、これを諌めた臣下の防衛策に耳を貸さず、獄中死させてしまいました。
この臣下の防衛策こそ、唐の水路による参戦を防ぐ物だったのです。
陸路からも新羅に攻め込まれ、東西より挟み撃ちにされた百済は、西暦660年、遂に滅びます。
「白村江の戦い」
「白村江」は現在の『錦江』河口付近
日本滞在中だった百済の豊璋王子や王族の鬼室福信ら、残された百済遺民たちは百済復興を旗印に、日本から援軍を得ようとしました。
第37代、斉明天皇(在位655年ー661年)と皇太子の中大兄皇子は、斉明7年(661年)軍の派遣を決定し、
現在の福岡県は筑紫に出征されるのですが、斉明天皇はにわかに御崩御あそばされてしまいます。
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