孔子と云うのは、面白みの全く感じられない至極凡庸な男です。
その孔子が書いたのだから、『儒学』など大したモノでは無いのですが、見るべきところも多少は有るでしょう。
それが、『狂狷』と『陽明学』です。
吉田松陰が弟子たちに「狂いたまえ」と教えたのは狂狷が故であったし、自らも狂狷の実践を弟子に見せ、徳川幕府により斬首に処されました。
「狂狷の徒」とは、狂った如く狷を張って、物事に取り組まなければ何を成すことも出来ないと言う考え方で、
この狂狷を吉田松陰は松下村塾で説き、そして生徒たちは明治維新を成して行きます。
もう一つは、陽明学です。
陽明学とは、明王朝時代の王 守仁 陽明が、形骸化していた新儒学『朱子学』の道徳倫理を再生させ、学問にまで昇華させた物です。
その考え方は、
「人々のためにならない政権は倒して良い」と言うもので、実践を旨とし、『知行合一』・『致良知』を説く物でした。
標題句解孔子家語 54/60
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天保7年(1836年)秋から、同8年(1837年)夏にかけて、二度目の「天保の大飢饉」が起きた際、各所で「百姓一揆」が多発します。
幕府の直轄地である天領の甲府では、米穀商が米の買い占めを行い、廻米として江戸へ輸送すると、
天保7年(1836年)8月「百姓一揆」天保騒動が起きました。
廻米とは本来、米価格の調節のための物でしたが、冷夏から来る米の不作と、役人と米穀商の癒着で、米の価格は高騰してしまいます。
これに対し、大坂東町奉行組与力を引退した後に私塾を開いていた、陽明学の信奉者、大塩平八郎は様々に知恵を絞り、
困窮者へ独自に義援金を支給している豪商、9代目 鴻池善右衛門へ対し、
「貧困に苦しむ者たちに米を買い与えるため、自分と塾の門弟の禄米を担保に金1万両を貸して欲しい」と持ちかけます。
余談ですが、江戸時代まで「大阪」は「大坂」と、呼ばれていました。
ですがこれを、大坂東町奉行であった跡部良弼に阻まれると、
大塩平八郎は天保8年(1837年)2月に、自らの蔵書5万冊など家財を売却して救済活動資金に当てました。
しかし今度は、大坂東町奉行所に「売名行為」と揶揄されます。
大坂東町奉行の跡部良弼は、「天保の改革」で知られる、老中 水野忠邦の実弟で、
徳川幕府へのご機嫌取りに、大坂や神戸の豪商から購入した米を、徳川家慶の第12代将軍就任の儀式のため江戸へ強制的に廻し、
京から米を買いに来る者を捕え、京の都は餓死者で溢れたと言われます。
秦氏千年の計21 大塩平八郎の乱
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