大坂東町奉行だった跡部良弼には、これとは真逆の、
天保7年(西暦1836年)11月29日に江戸町奉行の命令で大坂に米を買い付けに来た江戸商人に対し、協力拒否の姿勢を取ったとする説が有りますが、
ならば「大塩平八郎の乱」が起きていないはずですので、整合性が有りません。
とにかく跡部良弼はこの事件の責任を問われる事も無く、
実兄の水野忠邦が強制隠居・謹慎に処されてもなお、この腐敗した徳川幕府の中で順調に出世しますから、処世術には長けた人物だったようです。
ちなみに、水野忠邦が失脚の際は、
「天保の改革」で人々の恨みを買い、江戸市民が暴徒化して水野邸は襲撃されていますので、ほとほと庶民に嫌われる兄弟でした。
大塩平八郎が決起する前に、大坂町奉行所の不正や役人の汚職などを、江戸の幕閣へ告発する手紙は、
『御仕置例類集』第一輯に禁止されている武家無尽に関する内容で、
武家無尽とは、江戸時代の金融取引により武家が利益を上げる物です。
『御仕置例類集』は、徳川幕府の刑事事件に関する判例集で、武家無尽の仲介で利益を上げる行為は、その中で処罰対象とされていた訳ですが、
それを犯罪を取り締まる側の大坂町奉行所の役人が無尽、詰まりは、違法な金融取引の仲介を行っていたと言う刑事事件を、告発する物でした。
大塩平八郎はかつて与力時代、大坂の不法無尽を捜査した際にも、この事件の追求を行いましたが、大名たちや幕閣の要人も多く関わっており、
証拠は揉み消され、政治的圧力から捜査は中断を余儀なくされていた物です。
この隠蔽された事件を、大塩平八郎は再び手紙で告発しました。
しかしその中には、当時の老中 水野忠邦など幕閣が4名も含まれていたため、不法無尽は不問に付されたのです。
このように、自分たちで決めた法律を護れないお粗末な封建制度を見てゆくと、徳川幕府は今の中国共産党と、
「大差なかった」そう断定できるのでは無いでしょうか。
そして『儒学』は封建制度のために存在した腐臭を放つ過去の怨念であり、それを振り回して居るところもソックリそのまま同じです。
秦氏千年の計23 朝廷 vs 徳川幕府
秦氏千年の計21 大塩平八郎の乱
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