徳川幕府が滅んだのは、度重なる飢饉から農業国としてはすでに破綻しているのに、不安定な米本位制を辞められず、
違法な形で行こなわれ続ける金融取引の武家無尽や、役人と商業者の癒着を、裏経済のままにしていた処にあります。
商業を合法化して表の経済にすることが出来ていたなら、
例えば商業者がどれだけ利益を上げているのか、今で言う「決算」が有ったなら、徳川幕府は生まれ変わることが出来たのかも知れません。
しかしそれは、
「商業者は何も産み出さず他人が作ったものを右から左へ流すだけで利益を得るから卑しい」とする儒学を重用してきた徳川幕府には、出来ない相談でした。
慶長8年(1603年)に征夷大将軍へ任じられ、徳川幕府を開いて以来、家康の目指して来たものは儒学による秩序造りだったのです。
特に新儒学であった『朱子学』の英才 林 羅山を慶長10年(1605年)、京都から連れて来ると、
翌年の慶長11年(1606年)には、イエズス会の日本人修道士であったハビアン、当時41歳と『地球論争』を行なわせました。
林 羅山、23歳の時のことです。
林 羅山
12歳で京都の建仁寺で仏教を学ぶが、出家は拒否し、家で儒学に親しみ『論語』『大学』『中庸』『孟子』の研究をしていた。
ハビアンの母であるジョアンナは北政所、詰まり豊臣秀吉の妻 寧(ねね)の侍女で、彼は大徳寺の禅僧となり臨済宗を学びますが、
織田信長が亡くなった「本能寺の変」の翌年、天正11年(1583年)、京都で母と共にカトリックの洗礼を受け、大坂の神学校にてキリスト教を学び、
3年後にはイエズス会の修道士ハビアンとなりました。
ハビアンは、当時カトリックで支持されていたコペルニクスの「地動説」と「地球球体説」を展開します。
「地球球体説」はかつて織田信長に面会したイエズス会の宣教師が「地球は球体だ」と地球儀を示すと、信長はこれを理解したと云われていますから、
権力上はすでに終わった話しです、
しかし宗教上ではまだ終わっていませんでした。
少なくとも家康は、宗教論争を敢えて、朱子学の林 羅山を以てイエズス会に挑んだ訳です。
羅山は「天動説」と「地球方形説」を主張し、ハビアンの「地動説」と「地球球体説」を論破したと伝わっておりますが、
勝敗は最初から朱子学の勝ちが決まっていた、出来レースだったのかも知れません。
ただ、その場にいた日本人に、
「家康の連れて来た林 羅山が正しい、キリスト教の主張は間違いだ」と思わせれば良かったのでしょう。
イエズス会としても、元 臨済宗の禅僧だったハビアンが改宗したと宣伝することで、
敵対していた同性愛主義の日本仏教に、一泡吹かすことができると考えたでしょうから、どっちもどっちですね。
事実、同年に執り行われたキリシタン大名の黒田如水の3回忌法要で、遺族や仏教の僧侶・キリスト教関係者らが参列する中、
ハビアンに今度は「仏教批判」の説教をさせ、僧侶らはこれに激怒し徳川幕府に訴え出ています。
フランチェスコ会の報告書には「大成功」の記述が有るそうですから、日本国内での宗教闘争は必然的に過激な方向へと展開して行きました。
2年後、ハビアンは京都の女学校の修道女と駈落ちすると、
さらに4年後の慶長17年(1612年)には、長崎でキリスト教徒の取り締まり側で徳川幕府に協力しています。
2年の間にハビアンの中で何が起こったのか、知る由も有りません。
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林羅山―書を読みて未だ倦まず (ミネルヴァ日本評伝選) 単行本 鈴木 健一 (著)
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