その、義政の茶の指南を務めたともされる、村田珠光は奈良の人で、浄土宗 称名寺に出家して、
京の都で、臨済宗 大徳寺派の「遁世僧」一休宗純と交流し、
その後、奈良へ帰還して東大寺の近く北川端町で、珠光もまた遁世僧になると庵を営み、客に茶を点て饗します。
奈良時代以前に詠まれた『万葉集』では、
農業用の仮小屋を「イホ・イホリ・カリホ」と言い、「故郷を離れての孤独な住まい」を意味し、しみじみとした趣きを込めて使用されました。
また、山岳修行のための仮小屋も「イホ」と言い、
「遁世僧」などの隠者が、人里離れて庵に住む様子は、鴨長明『方丈記』など、当時の文学や絵巻物に見ることが出来ます。
西行法師や日蓮上人、明恵上人に一遍上人らが、
竹・柩などを編んだ筵・木枝・木の葉など、粗末な材料を使用しただけの小屋「草庵」を拠点とする、宗教活動を行ないました。
この「草庵」を茶室とし、客座と亭主の点前座を四畳半にまとめた物が、村田珠光の『草庵の茶』です。
これまで客の前で茶を点てる際は、高価な唐物の茶器を使用していましたが、
村田珠光は、蓋の割れた風炉釜に竹の柄杓と同じく竹茶杓、
そして、継ぎのある茶碗でした。
その茶碗も青磁が青くなるべき物が焼き損ねて赤褐色に紅く酸化した、チャイナ民窯の雑器を用い、
「和漢この境を紛らわす」とて、茶の世界における和漢の混在を目指し、これまでの唐物変調の打破を目論みます。
如庵
日本庭園 有楽苑 内に存する国宝三名席の一つ、茶室「如庵」愛知県犬山市
珠光の精神が広まるまでにはSNSの無い時代、80年余りを要しますが、
この「草庵」での様式が『わび茶』の源流と成り、
茶会での博打や飲酒を禁止し、
亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説き、これを高め追及し『わび茶』は創始されました。
詰まり、遁世して世間を逃れ俗事との関わりを断って結んだ亭主の「草庵」へ、客が訪ねて来て、
亭主は水を汲んで湯を沸かし、花を摘み、軸を掛け、客を精一杯饗す形を取ります。
遁世は、当時の貴人(セレブリティ)の憧れで有り、
また昨今の、「ソロキャンプ」や「田舎暮らし」、あるいは「ロハス」にも共感しうる処が有るようにも見受けられ、
そしてこれは、俗世を逃れ隠棲する『老子』の思想にも通ずる物でした。
「珠光の物語とて、
月も雲間のなきは嫌にて候。
これ面白く候」
村田珠光が『不足の美』を、交友の有った能楽師、金春禅鳳に語った言葉です。
珠光がさ、
「月も、雲間から見え隠れするのが良いよ、月だけただ照ってるのは嫌だな。」
って言ってたんだけど、これ面白くね。
『禅鳳雑談』
珠光―茶道形成期の精神 単行本 倉沢 行洋 (著)
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