唐物の流行は、室町幕府 第3代将軍 足利義満が日明貿易で得た豊富な資金で珍しい唐物を購入し、
北山の金閣寺に明(1368年ー1644年)よりの客人を招くと、彼らさえ見たことも無いような唐物を侍らせた処から来ていました。
千 利休は様々な試みを『茶の湯』に持ち込みます。
茶杓や花入の製作に、茶会の簡略化、2畳だけの茶室に躙口、
当時、天下人となっていた豊臣秀吉に命じられれば「黄金の茶室」を製作し、
そして遂に天正9年(1581年)、千 利休の指導により「楽茶碗」が製作され、村田珠光の達せえなかった、唐物からの脱却に成功しました。
特に、楽焼の創始者である長次郎 作の茶碗のうち、
千 利休が名作と見立てる七種の茶碗、『利休七種茶碗』は、黒楽茶碗3種、赤楽茶碗4種から構成されています。
明菴栄西が南宋よりお茶の種を、建久2年(1191年)に持ち帰ってから、実に390年後の出来事でした。
古田織部
利休七哲
蒲生氏郷・筆頭。細川忠興(三斎)。古田重然(織部)。芝山宗綱(監物)。瀬田正忠(掃部)。高山長房(右近)。牧村利貞(兵部)。
当初豊臣秀吉は、
「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と言う程、千 利休を信頼していました。
しかし、秀吉は千 利休との趣向の違いが鮮明となり、彼に切腹を命じます。
織田信長の『茶の湯』はここで終わりを告げたのでしょう。
代わって出て来た茶人は、千 利休の弟子の古田織部です。
古田織部は、秀吉好みの派手な茶会を考案し、太閤の『茶の湯』を確立し、利休とは違う独自の工夫で茶人としての隆盛を極めました。
豊臣秀吉が死去しても、徳川幕府 第2代将軍 徳川秀忠の『茶の湯』指南役にも抜擢されますが、
「大坂夏の陣」に豊臣方と通じたと嫌疑を掛けられ、千 利休と同じ切腹の道を歩みます。
ここに、豊臣秀吉の『茶の湯』も終わりを迎えました。
徳川幕府は文化では無く、新儒学の朱子学による支配を推し進めると、
『茶の湯』はその後、古田織部より学んだ小堀遠州が担って行く事と成ります。しかし、
彼は京の伏見奉行で一生を終えますから、幕府の在る江戸での『茶の湯』の影響力は徐々に低下して行きました。
小堀遠州
公金1万両を流用した容疑がかけられるが、3代続いての茶人切腹は免れた。
しかし、子孫が松平定信に天明8年(1788年)改易させられている。
徳川幕府が推し進めた朱子学による支配は、農業国としての破綻で、時代からはどんどん掛け離れたのですが、
織田信長や、豊臣秀吉の御茶湯御政道は、正にその時代に合った文化による天下統一だったと言えるでしょう。
これは、嘉保3年の夏から同年冬の永長元年(西暦1096年)に、京の都で発生した田楽の大流行から、
時の白河上皇が田楽踊の連を主催し、人心を掌握して、政治を『政』と言う元と成った「永長の大田楽」や、
政治の実権は平清盛に譲りながらも、文化面は讓らぬ後白河法皇の愛した「今様」とも通ずる、考え方であると言うことが出来るのかも知れません。
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