織・服部の衣服に関わる渡来系技能者の中に、服部を名乗り「謀術」を用いる忍者が混ざっていて、日本に対し何らかの忍者活動を仕掛けていたのか、
それとも、徐福が仙丹の探索のため、忍者を同道させた物かは分かりませんが、
忍者たちはいつしか日本へ定着し、または世界へと散らばって、主君のため或いは自分たちのために忍術を使い、
2,241年間(令和2年、西暦2020年 現在)もの永きに渡り、今もどこかで忍び続けて居るのです。
やはり忍者術の基礎は、情報の収集と拡散、そして組織および個人をコントロール下に置くことであり、
基本内容の成立は、紀元前500年ごろチャイナ春秋時代の軍事思想家 孫武による『孫子』を待つことになりました。
「故に間を用うるに五つ有り。
因間 有り、内間 有り、反間 有り、死間 有り、生間 有り。」
『孫子 第十三 用間篇』
因間:郷間とも言い、その郷土の出身者をスパイとして利用する。
内間:攻略したい組織内部の人間を内通させる。
反間:相手国のスパイを寝返らせる。二重スパイ。
死間:死を覚悟して偽の情報を信じ込ませる。
生間:相手国から生きて情報を持ち帰る。
川路利良
川路利良は、現在の警視総監に当たる初代『大警視』であった。
「日本警察の父」として知られる川路利良は、薩摩の下級藩士でしたが直心影流剣術に覚えがあり、藩主 島津斉彬の御伴として江戸へ出ると、
薩摩と江戸をつなぐ薩摩飛脚に抜擢され、斥候(偵察・攻撃・追跡)で頭角を現します。
「禁門の変」や「戊辰戦争」で活躍し西洋兵学を学び、明治維新後の明治4年(1871年)、島津斉彬の御庭方役(忍者)であった西郷隆盛より、
東京府大属(明治2年、1869年に府県に置かれた官名)として招かれると、
「貴方は諜報活動が得意だから、日本の警察をやったら良い」と西郷に口説かれ、
翌年の明治5年(1872年)には邏卒(巡査)総長に就任、司法省の海外視察団8名の一人としてヨーロッパ各国の警察制度を巡察し、
帰国後はフランス警察を参考に日本の警察制度を確立しました。
さらに翌年の明治6年(1873年)、「征韓論」に破れ、西郷がすでに東京と成っていた江戸を落ちると、薩摩の出身でそれに従う者も多かったのですが、
西郷の実弟である西郷従道は付いて行かないなど、
「どーしても」と言う者意外は、話し合って明治政府に残ったようです。川路利良も、
「私情においてはまことに忍びないことであるが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義の前に私情を捨て、あまねく警察に献身する」
と表明し、政府に残りました。
(かごしま市観光ナビ 川路大警視像 より)
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