秦氏千年の計33『大警視』川路利良

 はとり服部はとりの衣服に関わる渡来系技能者とらいけいぎのうしゃの中に、服部はっとりを名乗り「謀術ぼうじゅつ」をもちいる忍者が混ざっていて、日本に対し何らかの忍者活動を仕掛けていたのか、

 それとも、徐福じょふく仙丹せんたん探索たんさくのため、忍者を同道させた物かは分かりませんが、

 忍者たちはいつしか日本へ定着し、または世界へと散らばって、主君しゅくんのため或いは自分たちのためににんじゅつを使い、

 2,241年間(令和れいわ2年、西暦2020年 現在)もの永きに渡り、今もどこかでしのび続けて居るのです。
 

 やはり忍者の基礎は、情報の収集と拡散、そして組織および個人をコントロール下に置くことであり、

基本内容の成立は、紀元前きげんぜん500年ごろチャイナ春秋しゅんじゅう時代の軍事思想家 孫武そん ぶによる孫子そんしを待つことになりました。
 

 「ゆえかんもちうるにいつり。

 因間いんかん り、内間ないかん り、反間はんかん り、かん り、生間せいかん り。」

 孫子そんし 第十三 用間篇ようかんへん
 

 因間いんかん郷間きょうかんとも言い、その郷土の出身者をスパイとして利用する。

 内間ないかん:攻略したい組織内部の人間を内通させる。

 反間はんかん:相手国のスパイを寝返らせる。二重スパイ。

 かん:死を覚悟して偽の情報を信じ込ませる。

 生間せいかん:相手国から生きて情報を持ち帰る。
 

川路利良かわじ としよし


川路利良かわじ としよしは、現在の警視総監けいしそうかんに当たる初代しょだい大警視だいけいしであった。

 
 「日本警察の父」として知られる川路利良かわじ としよしは、薩摩の下級藩士でしたが直心影流剣術じきしんかげりゅうけんじゅつに覚えがあり、藩主 島津斉彬しまず なりあきら御伴おともとして江戸へ出ると、

 薩摩と江戸をつなぐ薩摩飛脚さつまひきゃく抜擢ばってきされ、斥候せっこう偵察ていさつ攻撃こうげき追跡ついせき)で頭角とうかくあらわします。
 

 「禁門きんもんへん」や「戊辰ぼしん戦争」で活躍し西洋兵学を学び、明治維新めいじいしん後の明治4年(1871年)、島津斉彬しまず なりあきら御庭方役おにわかたやく忍者)であった西郷隆盛さいごう たかもりより、

 東京府大属とうきょうふ だいぞく(明治2年、1869年に府県に置かれた官名)として招かれると、

 「貴方は諜報活動ちょうほう かつどうが得意だから、日本の警察をやったら良い」と西郷さいごう口説くどかれ、
 

 翌年の明治5年(1872年)には邏卒らそつ(巡査)総長に就任、司法省の海外視察団8名の一人としてヨーロッパ各国の警察制度を巡察じゅんさつし、

 帰国後はフランス警察を参考に日本の警察制度を確立しました。

 さらに翌年の明治6年(1873年)、「征韓論せいかんろん」に破れ、西郷さいごうがすでに東京と成っていた江戸を落ちると、薩摩の出身でそれに従う者も多かったのですが、

 西郷さいごうの実弟である西郷従道さいごう つぐみちは付いて行かないなど、
 

 「どーしても」と言う者意外は、話し合って明治政府に残ったようです。川路利良かわじ としよしも、

 「私情しじょうにおいてはまことにしのびないことであるが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義たいぎの前に私情しじょうを捨て、あまねく警察に献身けんしんする」

 と表明し、政府に残りました。
 (かごしま市観光ナビ 川路かわじ大警視像だいけいしぞう より
 

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