明治10年(1877年)1月11日、かつて薩摩と呼ばれた鹿児島に川路利良の許可の元、鹿児島出身の中原尚雄ら警視庁職員24名が帰郷します。
西郷と共に下野した谷口登太は、中原尚雄とは旧知であり、帰郷の真意を確かめるべく会いに行くと、
中原は「刺殺が目的」と言う。
驚いた谷口は、西郷隆盛が自らの賞与を使い運営していた陸軍士官養成学校「私学校」などに通報しました。
「明治政府が西郷を暗殺か!?」
同年2月3日、私学校の生徒らは中原の証言こそ何よりの証拠と、
ほかの帰郷の同僚ら共々 私学校へ捕え、厳しい拷問の末、中原尚雄は明治政府の「西郷暗殺計画」を自白してしまいます。
さらには同年2月9日、やはり鹿児島出身の野村 綱が鹿児島県庁に自首して「大久保利通から鹿児島の偵察を依頼された」と自供、
これで西郷隆盛など幹部たちが明治政府と話し合いのために上京すれば、暗殺される恐れありとなり、西郷側は蜂起の道しか取れなくなりました。
同年2月14日、翌15日そして17日には、西郷隆盛も鹿児島から出陣し、ここに「西南戦争」は起こります。
警視隊
西南戦争の激戦を終え、横浜港に凱旋した警視隊。
作家の赤間倭子 氏によれば、中列右端が 新撰組 副長助勤であった 斎藤 一 だと云う。
川路利良は警視庁警視隊を率い政府軍として、西郷軍を激戦のうえ退け、
同年3月10日、明治天皇の勅使 柳原前光は、海路にて鹿児島に入ると中原尚雄らを救出しました。
これは、『孫子 第十三 用間篇』の五間の内、
因間:郷間とも言い、その郷土の出身者をスパイとして利用する。
死間:死を覚悟して偽の情報を信じ込ませる。
を、合わせて使用した用間計だったと考えられます。
「西南戦争」の切っ掛けを作った中原尚雄は後年、
「視察と言ったのであって、刺殺では無い」と明言していますが、
これも、どちらとも取れる言葉をワザと考えて使っているのでしょう。
鹿児島出身である野村 綱がわざわざ自首して、やはり鹿児島出身の大久保利通も共犯で有るかのように、情報を信じ込ませました。
勅使として柳原前光が中原尚雄らの救出に鹿児島へ入ったのは、後で用間計をお知りになられた明治天皇が、
「西郷は中原を殺さないから助けに行くように」と、お取り計らい下された物と考えられます。
中原尚雄は後に、
高知県警部長・山梨県警部長・福岡県警部長を歴任し、警察を辞職すると郷里の鹿児島へと戻り、大正3年(1914年)70歳にてこの世を去りました。
西南戦争で立てこもる明治政府軍と、攻める西郷軍で激戦となった加藤清正 築城の名城『熊本城』
このように西郷隆盛が、間諜の能力に長ける川路利良を見込んで、警察のトップに据える考え方は、人材登用の意味でも非常に興味深いです。
そんな川路利良は、
「大義の前に私情を捨て、あまねく警察に献身する」との言葉通り、
暑い夏にも常に制服を着込み脱ぐことは無く、自身の勤務を終えると、各 警察署・交番を廻り睡眠は毎日4時間でした。
明治12年(1879年)1月、再びヨーロッパの警察を巡査しますが、にわかに発病し、
現地の医師の治療を受け10月に帰国、しかし東京に到着するや病状は悪化の一途を辿り死去します。
享年46歳。
偽札事件に関わる汚職の捜査を恐れた犯人側の「毒殺」との噂も立つなど、最後まで職務に殉ずる生涯でした。
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