聖徳太子は「厩戸」でお生まれになられた厩戸皇子としても知られるのですが、太子を表す御名として、
「豊聡耳」との表記の方が多く見られます。
これは、一度に10人もの請願をお聞きになられた太子が、総ての人々の言葉を漏らさず理解している処から来ていました。
この聖徳太子の「豊聡耳」の能力とは、何処から来ているのかと言うと、太子の用いた志能備の活用によりもたらされる物だったのです。
甲賀の忍術書『忍術應義傳』によれば、甲賀の国は馬杉の出身にして道臣命を祖先とする忍者の末裔、その名を大伴細人と言い、
聖徳太子の耳と成り御仕えする忍者でした。
時は今、用明2年(西暦587年)7月、敏達天皇が御崩御あそばされてより二年の時は経過して、聖徳太子13歳の夏、
欽明天皇の、お子様同士の皇位継承問題、そして「崇仏派・廃仏派」の対立が絡み合い、
「丁未の乱」の幕が切って落とされる事となるのですが……
聖徳太子と2人の息子
8世紀の絵画から、木版画の複製:掛軸、紙、絵の具。法隆寺の宝の1つ。
遡る事35年前の、欽明天皇13年(西暦552年年)に朝鮮半島の百済の国から、仏像と経典が伝来すると、
大臣の職にあり天皇にとって母方の親戚関係である蘇我氏の蘇我稲目が、
「数多くの国々が仏法を礼拝しているのに、日本だけが背くのはいかがなものか?」と言うのに対し、
大和朝廷の古くからの臣下で、天皇の補佐として執政を行う大連に任じられる物部尾輿は、
「日本の天皇は、天津神・国津神を奉じてきたのに、それを止め外国の神を拝めば、日本古来よりの神の怒りを招く」と応じます。
「ならば稲目よ、試しに信仰してみてくれ」
欽明天皇が、そう申されますと、蘇我稲目は仏像や経典を自宅に安置し、向原の家を浄めて寺としました。これが日本の仏教寺院の始めです。
その後、国内で疫病が蔓延したことで、物部尾輿は「仏教を広め国神が怒った」と欽明天皇へ進言。
欽明31年(570年)に蘇我稲目が死去すると天皇の許可の元、物部尾輿は向原の寺を焼き払いました。
しかし疫病は収まるどころか、天災までが続いた事から仏教の信仰が許可されることとなります。
欽明天皇の御子様など、
◆敏達天皇ー推古天皇と異母兄妹で夫婦。
◆用明天皇ー聖徳太子の父君。仏教推進を臣下たちに諮る。
◆推古天皇ー敏達天皇と異母兄妹で夫婦。
◆穴穂部皇子ー敏達天皇が崩御されると異母姉弟の推古天皇を狙う。
◆崇峻天皇ー穴穂部皇子と母も同じ兄弟。
▲宅部皇子ー欽明天皇の兄の宣化天皇の御子で穴穂部皇子と仲が良い…
欽明天皇が御崩御あそばすと、敏達元年(西暦572年)「廃仏派」寄りにあらせられる敏達天皇の御即位に伴い、
日本古来よりの神から怒りを買うとする仏教導入反対の「廃仏派」で大連である物部守屋は勢い付きますが。
海外で影響が強くなっている仏教を日本に導入したい「崇仏派」の大臣である蘇我馬子は病気になると、
やはり体調を壊しておられる敏達天皇に対し、仏教を信奉する許可を求め奏上し、天皇より許可されますが、
この頃より巷には疫病が又も流行し出しました。
蘇我馬子の墳墓とも云われる石舞台古墳
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