秦氏千年の計38 寵臣・三輪 逆

 この非常識な行為に、三輪 逆みわの さかう兵衛つわもののとねりを招集し、殯宮もがりのみやの門を固く閉じて侵入をはばみますが、穴穂部皇子あなほべのみこ七度ななたびに渡り夜這よばました。

 けれども殯宮もがりのみやの門は開かれず、穴穂部皇子あなほべのみこの怒りは三輪 逆みわの さかうへと向かい、

 「三輪 逆みわの さかう不遜ふそんである」と、

 大連おおむらじ物部守屋もののべの もりやと、大臣の蘇我馬子そがの うまこへ言い、二人はこれに同意しますが、
 

 さらに穴穂部皇子あなほべのみこは、物部守屋もののべの もりや兵共つわものどもひきいて、三輪 逆みわの さかうの居る磐余池辺双槻宮いわれのいけのべのなみつきのみやを包囲しようと動き、

これにいち早く気付きしさかう三輪山みわやまへと逃れ、その夜の内に山から降りて、豊御食炊屋姫尊とよみけかしきやひめ後宮こうきゅうの在る、善信尼ぜんしんにの鞭打ちの刑に処されし場所、

 海石榴市宮つばいちのみやのがれます。
 

 しかし、三輪 逆みわの さかうの一族の中から裏切りが有りさかうの隠れ場所は密告され、穴穂部皇子あなほべのみこ物部守屋もののべの もりやに、三輪 逆みわの さかうと二人の子供の殺害まで命令すると、

 物部守屋もののべの もりやつわものひきいだし、穴穂部皇子あなほべのみこも合流しようと宮から出るのを蘇我馬子そがの うまこは押しとどめ、

 「このことは泊瀬部皇子はつせべのみこ(後の崇峻すしゅん天皇)も知っての事だ」と穴穂部皇子あなほべのみこが言いたてるのを、

 「王者おうじゃたるもの刑人けいじん近付ちかづくべからず」

 馬子うまこはこう諫言かんげんし、守屋もりやとの合流は辞めさせました。
 

 そこへ物部守屋もののべの もりやらが戻りて言うには、

 「あの海石榴市つばいちで、この手によりさかうらを射殺いころしてやった」

 それを聞いた馬子うまこは「天下の乱は近い」となげき、

 「お前のような小臣しょうしんの知る処では無い」などと守屋もりやは言い放つ。
 

 今回の事に皆が大変な衝撃を受け、のち推古すいこ天皇や、敏達びだつ天皇の臣下だった者たちの恨みを買い、蘇我馬子そがの うまこはその後の行動に変化が現れます。

 そして崇仏論争すうぶつ ろんそうにも多大な影響を与えることになりました。
 

物部守屋もののべの もりや(菊池容斎 筆)
 

ニギハヤヒを先祖とする物部もののべ

 
 このような事件が有った翌年の、用明ようめい2年(587年)4月2日、聖徳太子しょうとくたいし御父君おちちぎみにあらせられし用明ようめい天皇は重い病にされる内に申されるには、

 「れは仏法の信仰をほっすが、皆はどう思うか」と、

 多くの臣下しんか御諮おはかりになられます。

 大連おおむらじ物部守屋もののべの もりやと、敏達びだつ天皇に「疫病やくびょう流行の原因は蘇我そが一族の仏教信仰のせい」と、守屋もりやと共に奏上そうじょうしていた「廃仏派はいぶつは」の中臣勝海なかとみの かつみは、

 この天皇すめらみこと御意思ごいしに強烈な反発を示し、逆に蘇我馬子そがの うまこは「仏法を信仰するみことのりほうずべし」と勢い付いて、

穴穂部皇子あなほべのみこうながすと、今の大分は豊国とよのくにの僧侶を内裏だいりに引き入れさせました。
 

 穴穂部皇子あなほべのみことして見れば、次の天皇を狙っていますから、ここに居るいずれ自分の臣下しんかとなる者たちに良い所を見せたかっただけでしょうが、

 この行為に「廃仏派はいぶつは」の物部守屋もののべの もりや激高げっこうし怒りを隠せません。
 

釈迦しゃか金銅像こんごうぞう仏経典ぶっきょうてんが伝わった場所海石榴市つばいち三輪山みわやま

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