この非常識な行為に、三輪 逆は兵衛を招集し、殯宮の門を固く閉じて侵入を阻みますが、穴穂部皇子は七度に渡り夜這いました。
けれども殯宮の門は開かれず、穴穂部皇子の怒りは三輪 逆へと向かい、
「三輪 逆は不遜である」と、
大連の物部守屋と、大臣の蘇我馬子へ言い、二人はこれに同意しますが、
さらに穴穂部皇子は、物部守屋と兵共を率いて、三輪 逆の居る磐余池辺双槻宮を包囲しようと動き、
これにいち早く気付きし逆は三輪山へと逃れ、その夜の内に山から降りて、豊御食炊屋姫尊が後宮の在る、善信尼の鞭打ちの刑に処されし場所、
海石榴市宮へ遁れます。
しかし、三輪 逆の一族の中から裏切りが有り逆の隠れ場所は密告され、穴穂部皇子は物部守屋に、三輪 逆と二人の子供の殺害まで命令すると、
物部守屋は兵を率いだし、穴穂部皇子も合流しようと宮から出るのを蘇我馬子は押し止め、
「このことは泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)も知っての事だ」と穴穂部皇子が言い縦るのを、
「王者たるもの刑人に近付くべからず」
馬子はこう諫言し、守屋との合流は辞めさせました。
そこへ物部守屋らが戻りて言うには、
「あの海石榴市で、この手により逆らを射殺してやった」
それを聞いた馬子は「天下の乱は近い」と嘆き、
「お前のような小臣の知る処では無い」などと守屋は言い放つ。
今回の事に皆が大変な衝撃を受け、後の推古天皇や、敏達天皇の臣下だった者たちの恨みを買い、蘇我馬子はその後の行動に変化が現れます。
そして『崇仏論争』にも多大な影響を与えることになりました。
このような事件が有った翌年の、用明2年(587年)4月2日、聖徳太子の御父君にあらせられし用明天皇は重い病に伏される内に申されるには、
「朕れは仏法の信仰を欲すが、皆はどう思うか」と、
多くの臣下へ御諮りになられます。
大連の物部守屋と、敏達天皇に「疫病流行の原因は蘇我一族の仏教信仰のせい」と、守屋と共に奏上していた「廃仏派」の中臣勝海は、
この天皇の御意思に強烈な反発を示し、逆に蘇我馬子は「仏法を信仰する詔を奉ずべし」と勢い付いて、
穴穂部皇子へ促すと、今の大分は豊国の僧侶を内裏に引き入れさせました。
穴穂部皇子として見れば、次の天皇を狙っていますから、ここに居るいずれ自分の臣下となる者たちに良い所を見せたかっただけでしょうが、
この行為に「廃仏派」の物部守屋は激高し怒りを隠せません。
釈迦金銅像や仏経典が伝わった場所海石榴市と三輪山
栗本 慎一郎 シリウスの都 飛鳥―日本古代王権の経済人類学的研究 単行本
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