秦氏千年の計45 山背大兄王の非業と中大兄皇子の野望

 あきの かりいおの とまをあらみ わが衣手ころもでは つゆにぬれつつ

天智てんぢ天皇 『後撰和歌集ごせんわかしゅう』秋中ー302

 秋の田んぼの仮小屋かりごやいおりで、例大祭れいたいさいに必要な、菅や茅すげ  かやなどをあらんだむしろとまを新しく編んでいると、

いつの間にか私のころもの手の部分があせばみ、つゆれたようになりながら作業を続けました。
 

 農業と宗教儀礼しゅうきょうぎれい天皇、の関係を感じさせるうたと成っており、

京都、小倉山おぐらやま山荘さんそう藤原定家ふじわの ていかにより編纂へんさんされた百人一首ひゃくにんいっしゅの中でも、一番最初に選ばれています。

 仮小屋かりごやいおりは、農業や宗教との関連性が強く、村田珠光むらた じゅこう創始そうしした草庵そうあんちゃへと進化しんかし、わびちゃで使用する茶室ちゃしつへと昇華しょうかして行きました。

秦氏千年の計29 不足の美
 

乙巳の変いっし  へん


蘇我入鹿そがの いるかは、皇極こうぎょく天皇御膳ごぜん謀殺ぼうさつされる。

 
 推古すいこ36年(628年)3月7日、推古すいこ天皇後嗣あとつぎを指名することなく御崩御ごほうぎょされました。
 

 聖徳太子しょうとくたいし治世ちせい以来、天皇を中心にした国政改革こくせいかいかくをしようとする思いが皇室の周辺に高まり、これを阻止したい蘇我入鹿そがの いるかは、

父親である蘇我蝦夷そがの えみしより朝廷の許しを得ず紫冠むらさきのかんむりを与えられ大臣職を譲り受け、自分が影響力を持つ天皇即位そくいさせるため、

古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこ擁立ようりつしようとたくらみ、そのために邪魔な聖徳太子しょうとくたいし皇子みこにあらせられる山背大兄王やましろのおおえのおう上宮王家じょうぐうおうけの居る斑鳩宮いかるがのみやへ軍を差し向けます。
 

 皇極こうぎょく2年(643年)11月1日、蘇我入鹿そがの いるからにおそわれ、山背大兄王やましろのおおえのおう舎人とねりは防戦しますが、持ちこたえられず生駒山いこまやまへとのがれ、側近そっきん三輪文屋みわの ふんやから、

 「東国へ逃れれば再挙さいけん出来ます」とすすめられましたが、山背大兄王やましろのおおえのおうは、

 「私達が居たのでは争い事の元となり、民へ苦しみを与えることとなるだろう」

 と、お考えになられ、斑鳩寺いかるがでらにお戻りになった山背大兄王やましろのおおえのおうの一族は、自殺を御選おえらびになられました。
 

 この襲撃しゅうげきには入鹿いるかの行為に父の蘇我蝦夷そがの えみしが、激怒したと伝えられます。

 大臣をゆずられてから1ヶ月も経たに11月上旬の事でした。
 

 天智てんぢ天皇は、まだ中大兄皇子なかのおおえのみこであった皇極天皇4年(645年)6月12日。中臣鎌足なかとみの かまたりらと計り、蘇我入鹿そがの いるかを暗殺する乙巳の変いっし  へんを起こすと、

 蘇我蝦夷そがの えみしは、推古すいこ28年に聖徳太子しょうとくたいし蘇我馬子そがの うまこが『古事記こじき』・『日本書紀にほんしょき』以前に編纂へんさんし成立させた歴史書の2書、

天皇記てんのうき』と『国記こくき』などの国宝もろともやかたに火をはなち自殺したと伝え、この時『国記こくき』のみは救出され中大兄皇子なかのおおえのみこ献上けんじょうされます。
 

 母である皇極こうぎょく天皇中大兄皇子なかのおおえのみこに対し譲位じょういをお申し出られますが、皇子みこはこれをご辞退あそばされました。

 皇極こうぎょく天皇の同母の弟君にあらせられる孝徳こうとく天皇御即位ごそくいあそすと、中大兄皇子なかのおおえのみこはその皇太子こうたいし御成おなりあそばし、

 孝徳こうとく元年がんねん6月19日(645年)、史上初しじょうはつ元号げんごうを立て、大化たいか元年がんねん6月19日とします。
 

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