秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
天智天皇 『後撰和歌集』秋中ー302
秋の田んぼの仮小屋の庵で、例大祭に必要な、菅や茅などを粗く編んだ筵の苫を新しく編んでいると、
いつの間にか私の衣の手の部分が汗ばみ、露に濡れたようになりながら作業を続けました。
農業と宗教儀礼と天皇、の関係を感じさせる歌と成っており、
京都、小倉山の山荘で藤原定家により編纂された百人一首の中でも、一番最初に選ばれています。
仮小屋の庵は、農業や宗教との関連性が強く、村田珠光が創始した『草庵の茶』へと進化し、『わび茶』で使用する『茶室』へと昇華して行きました。
推古36年(628年)3月7日、推古天皇が後嗣を指名することなく御崩御されました。
聖徳太子の治世以来、天皇を中心にした国政改革をしようとする思いが皇室の周辺に高まり、これを阻止したい蘇我入鹿は、
父親である蘇我蝦夷より朝廷の許しを得ず紫冠を与えられ大臣職を譲り受け、自分が影響力を持つ天皇を即位させるため、
古人大兄皇子を擁立しようと企み、そのために邪魔な聖徳太子の皇子にあらせられる山背大兄王ら上宮王家の居る斑鳩宮へ軍を差し向けます。
皇極2年(643年)11月1日、蘇我入鹿らに襲われ、山背大兄王の舎人は防戦しますが、持ちこたえられず生駒山へと逃れ、側近の三輪文屋から、
「東国へ逃れれば再挙出来ます」と勧められましたが、山背大兄王は、
「私達が居たのでは争い事の元となり、民へ苦しみを与えることとなるだろう」
と、お考えになられ、斑鳩寺にお戻りになった山背大兄王の一族は、自殺を御選びになられました。
この襲撃には入鹿の行為に父の蘇我蝦夷が、激怒したと伝えられます。
大臣を譲られてから1ヶ月も経たに11月上旬の事でした。
天智天皇は、まだ中大兄皇子であった皇極天皇4年(645年)6月12日。中臣鎌足らと計り、蘇我入鹿を暗殺する乙巳の変を起こすと、
蘇我蝦夷は、推古28年に聖徳太子と蘇我馬子が『古事記』・『日本書紀』以前に編纂し成立させた歴史書の2書、
『天皇記』と『国記』などの国宝もろとも舘に火を放ち自殺したと伝え、この時『国記』のみは救出され中大兄皇子に献上されます。
母である皇極天皇は中大兄皇子に対し譲位をお申し出られますが、皇子はこれをご辞退あそばされました。
皇極天皇の同母の弟君にあらせられる孝徳天皇が御即位あそすと、中大兄皇子はその皇太子に御成あそばし、
孝徳元年6月19日(645年)、史上初の元号を立て、大化元年6月19日とします。
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