歌舞伎を創始したとも云われる出雲阿国は、
現在の島根県は出雲国杵築中村の鍛冶方である、中村三右衛門の娘とされます。
慶長5年(1600年)、阿国が出雲大社の巫女となり、戦国時代に荒れてしまった大社の勧進のため諸国を巡業した処、
「クニなる者、ヤヤコ跳を踊り、大変な評判になる」と、
安土・桃山時代から江戸時代 前期にかけての公家・歌人・医師であった、西洞院時慶の『時慶卿記』に著されています。
同時代の武将・大名であった、松平忠明の記す『当代記』によると、
3年後の、慶長8年(1603年)4月には、それが「かぶき踊り」となり、京の都にて人気を博し、伏見城へと度々参上すると、
太閤 豊臣秀吉の御前にて披露することもありました。
当初、四条河原に建てた仮の芝居小屋で興業しているのですが、やがて阿国は自分の一座を率い
京都市上京区の北野天満宮に定舞台を構えるように成ります。
「伊達男に扮した出雲阿国が、太刀を担ぎ十字架と数珠を首から掛けたド派手な“かぶき者”の出立ちで、茶屋の粋な娘に恋愛感情を抱き追っかけ回す」
なる演目で、一説に娘役は彼女の夫が演じていたとも云いますから、後の歌舞伎にも通ずるユニセックス振りでした。
他の出演者も皆が異性装で、当時の空也上人が始め、鎌倉時代に一遍上人により広まった「念仏踊り」と同じように、
最期は演者と観客が入り乱れ、熱狂の内に大団円を得ます。
阿国の演目が評判になると、彼女の一座を真似る者たちが現れ出しました。
これらの出し物が総称され「遊女歌舞伎」と呼ばれるように成り、「歌舞伎舞踊」が誕生したのです。
阿国の一座を真似する者たちにより、人気に衰えが見え出した出雲阿国は、京の都から出て諸国を巡って行くことにすると、
「遊女歌舞伎」は各地へと広がり、遊女屋に取り入れられて行きました。
慶長12年(1607年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、彼女の消息はそこで途絶えてしまいます。
慶長17年(1612年)4月、御所で歌舞伎が演じられたことがありますが、出雲阿国一座による物だったかも知れません。