2019年10月26日
本日より日本で初めての『ラグビーワールドカップ2019』は準決勝が始まり、多くの人々が幸せな時間を過ごしていたとしても、
世界のどこかには、かえりみられることなく暴力に虐げられ苦しむ者たちが必ず居る事を忘れてはならない。
「One for all, All for one(一人はみんなのために、みんなは一人のために)」
―――― あれから60年の月日は経過し、
今なお中国共産党にその聖なる土地を奪われ、あの世界の屋根で自由に暮らせえぬ人々と、シャーロック・ホームズはともにあった。
その彼が、広場のテーブル席で朝食の前のタバコを楽しまんと、細長い脚を組んだせつな、
彼の側へチベットの赤い僧衣に身を包み、一人の8, 9歳ほどの少年僧がやって来て、澄んだ瞳でホームズの顔をマジマジと見詰めている。
それに気付かぬふりをして、パイプに近頃お気に入りの、タバコの葉を詰めようと取り出したのだが、
少年の前でタバコを吸うのは、はばかられると思い直して仕舞うことにした。
「ここは喫煙されても大丈夫な場所ですよ、」
年長の尼僧タルマー師が、いつもの晃々たる顔を向けホームズに声を掛ける。
「彼はツァムジュと言います、ツァムジュ、ホームズ先生にちゃんとご挨拶した方が良いんじゃ無いかな?」
「いや、わたしの方から挨拶させて頂こう。」そう言ったホームズは立ち上がり、
「僧侶ツァムジュ、わたしはシャーロック・ホームズです。」
シャーロック・ホームズが、ツァムジュ少年へ右の手のひらを差し出すと、少し戸惑ったように少年も自らの右手をその手のひらへ置いた。
「よろしく。」そう深く握られる少年の手は、“こんなに力強く握手と云う物はするのか” と彼を少し驚かせたようだ。
「シャーロック・ホームズ先生、こんにちは。ボクの名前はゲンドゥン・ツァムジュです。始めまして、」
その緊張する面持ちをかくさず、誠実に話そうとする努力を相手へと示した今年9歳になる少年僧の『ツァムジュ』の名前の意味は、
「子供はもう要らない」と子沢山の家庭で付けられる名前で、彼の家もその例外ではなく、それでもまだその下に妹と弟がいると云う。
「このパイプが珍しかったのかな? それとも、わたしが珍しかったのかな、」
「言って良いでしょうか、ボクは夢を見るんです。先生の事も見ました、先生がチベットを独立させに来ると、」
「いや、流石に僕一人ではチベットを独立させる力は無さそうだよ、みんなでやらないとね、」
「いえ先生は、チベットを独立させる知恵をボクたちにお与えくださいます、夢で見たんです!」
「この子はですね、ホームズ先生。夢を見るんですよ、」
と僧侶タルマー師が割って入った。
「予知夢です。そう言う子供が僧侶になるんです、チベットでは。」
タルマー師がそう説明するのには、チベットならではの理由が有る。
チベットでは、不思議な少年が現れるとたいがい僧侶になる。
それは、亡くなった高僧の生まれ変わりを探すためなのだが、
高僧が亡くなる間際に暗示を残したり、遺体の向いた方角などから、前世を覚えている少年を探すのだ。
ツァムジュ少年は、高僧の生まれ変わりと言う訳では無い、しかし良く正夢『予知夢』を見て、
「あそこの家に今度子供が生まれる」とか、「あそこのお祖母ちゃんがもうすぐ亡くなる」とか……
何で分かるのか、ツァムジュ少年の母親が聞くと、
「夢で見た、」と答え、6歳にして寺へ入るのであった。
「…… と、言う訳で、ツァムジュは予知夢を見るんです。ホームズ先生ならこの子の能力を、上手に使って頂けないかと思いますが、いかがでしょう。」
「ツァムジュ君、良いかい? 近頃見た夢ではどんな物が有るのかな?」
「ホームズ先生が、あなたがここにいらっしゃるのを見ました! 先生を見てから、夢で見たのを思い出しました、何時もそうです!」
シャーロック・ホームズは、ツァムジュ少年僧の方へ身体を近付け、
「他には?」と聞いた。
「他には…… ホームズ先生を見た後に少しお話をして…… それから、んー、先生になら言っても良いか…… 火事が起きます、山火事です大きな山火事です!」
タルマー師が慌てて、
「何故それを早く言わないのっ!」と言う声へ、シャーロック・ホームズは静かに重ねてツァムジュ少年に、
「これまでにも、火事の夢を見た事はあるかな?」
「はい、有ります!」
「その時、君は火事の犯人だと疑われた?」
「疑われました…… まだ小さかったのと、火事の場所に居なかったので、ボクじゃないと分かりました、」
「よろしい! 何時ごろ山火事は起きそうだろう?」
「この辺じゃ無いです、オーストラリアで起こります!」
「オーストラリアで大規模な山火事か…… どうやってその火事を知ったのかな?」
「テレビか…… インターネットを見てます、映像です。放火か自然かは分かりません。」
「なるほど、オーストラリアの山火事を止めるのは、残念ながら無理かも知れないけど…… オーストラリアは毎年のように山火事が起きてるからね、
オーストラリア政府に連絡した方が良いけれど、どうだろう信じてくれるかな。」
「もっと大きな山火事です!」
「高名なホームズ先生が話しても無理ですか!?」タルマー師は強い口調でそう言う。
「無理でしょう、『毎年起きてますよ』と言われるかも知れませんし、わたしは未来予知能力者として知られている訳じゃ無いのと、
彼と…… ツァムジュ君と同じように、売名目的で自分で放火したと疑われるかも知れません、」
「ダラムシャーラーにホームズ先生はいたと、チベット亡命政府が保証します! それでもですか?」
「―――― 亡命政府は疑われ無くても、僕はどうでしょうね。誰かにヤラせたと思われるかも、」
「まさか…… とにかく、オーストラリア政府に知らせなくては!」
「そうしてください。」
タルマー師がその場から立ち去るのを見送り、ホームズはツァムジュ少年の真正面へしゃがみ込むと、彼の目を真っ直ぐに見て話しだす。
「ツァムジュ君、他にも何か夢を見たら、僕に教えてくれないか?」
「先生はボクの夢を信じますか?」
シャーロック・ホームズは、左手にパイプをつまんだまま右の拳にほほを乗せ、
「僕はね、客観的な事実しか信じないよ。
でもね、情報はその時点で事実かどうか大抵は確認できない物なんだ、現象として発生してから事実として確認できるんだね――――
―――― つまり、君の話している事は情報なんだよ、情報は大切だからね。
僕はどんな情報でも貪欲に集めて、あらゆる可能性の中から真実を見出したいんだ。
それに、周りのみんなは君の事を信じてるんじゃないのかな?……」
この小さな身体で姉弟のため、自ら僧侶の道を撰んだその胸中に秘める強い意思が、キッと結んだ決意の唇に見て取れる。
「…… もし誰も君を信じ無くなっても、僕は君の言う事を信じると約束しよう! だから他にもなにか有ったら、良ければ話してくれないかな。」
「ありがとう。」
そう言って、ツァムジュ少年は初めてホームズへ笑顔を見せた。
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