秦氏千年の計43 縄文人にとっての「サナギ」
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秦丹照。秦国勝の子。
推古天皇の御代、皇太子にして摂政にあらせられる、聖徳太子に御仕えした渡来系の武人・芸能者・商人。
冠位:大仁・小徳
丁未の乱《ていびのらん》、用明天皇2年(587年)は、飛鳥時代の内乱で、「物部守屋の変」ともいう。
仏教を巡り大臣の蘇我馬子と、大連の物部守屋が戦い物部氏が敗れた。
その際は軍を率いて聖徳太子に従い、太子に命じられ仏像にする白膠木《ぬるで》の木を用意した。
皇極天皇3年(644年)、シャーマン大生部多の新興宗教「虫祭」常世教団を追討する。(日本書紀)
聖徳太子が河勝に、観る者の笑いを誘う「六十六番の物まね」を作らせ、紫宸殿で舞わせた物が「申楽(猿楽・後の『能・狂言』)」のはじまりと伝える。(「風姿花伝」第四)
観阿弥・世阿弥親子は河勝の子孫を称し。また金春流も河勝を初世とする。
秦河勝広隆は自らの子供たちに三方楽所《さんぽうがくそ》、宮中方(宮廷・京都)と南都方(興福寺・奈良)、天王寺方(四天王寺・大阪)で『雅楽《ががく》』をさせた。三方楽人《さんぼうがくにん》
秦姓四氏、東(東儀《とうぎ》)・薗・林・岡「大坂 四天王寺の四楽家」
秦河勝の名は、何年にも渡って見る事が出来るため、名を継ぐ者がいたと考えられる。
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●次へ→ ←前ヘ■ 聖徳太子しょうとくたいしの側近である秦河勝はたの かわかつは、世阿弥ぜあみが記しるせし「 能のう 」の理論書『風姿花伝ふうしかでん』によると…… 欽明きんめい天皇の御代みよ、大和の国は奈良 …
●次へ→ ←前ヘ■ 推古すいこ天皇10年(602年)、百済くだらよりの法師ほうし 観勒かんろくが来朝らいちょうし、曆本れきほんおよび、天文地理てんもんちりの書、遁甲方術とんこうほうじゅつの書を朝廷へ献上し飛鳥寺 …
●次へ→ ←前ヘ■ 天武てんむ天皇は、兄の天智てんぢ天皇と同じ母親である斉明さいめい天皇(皇極こうぎょく天皇、2度御即位たびごそくいあそばす)から生まれた同母系兄弟です。 同じ母系の姉妹しまいや兄弟きょうだい …
●次へ→ ←前ヘ■ しかし感情が爆発する寸前なのは、そこに居る天皇すめらみことの臣下しんかたちの方で、務めを果たした三輪 逆みわの さかうとその二人の子を、咎人とがびととして処刑した守屋もりやへ、 今にも斬りか …
●次へ→ ←前ヘ■ この非常識な行為に、三輪 逆みわの さかうは兵衛つわもののとねりを招集し、殯宮もがりのみやの門を固く閉じて侵入を阻はばみますが、穴穂部皇子あなほべのみこは七度ななたびに渡り夜這よばいました。 …
●次へ→ ←前ヘ■ 敏達びだつ14年(585年)3月、「廃仏派はいぶつは」の物部守屋もののべの もりやは、 「疫病やくびょうは仏教信仰のせい」として、大連おおむらじの権限を乱用し、 蘇我馬子そがの うまこが …
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聖徳太子しょうとくたいしと百済観音くだら かんのん(聖徳宗総本山 法隆寺) 法隆寺ほうりゅうじは、聖徳太子しょうとくたいしの御父君にあらせられる用明ようめい天皇の発願ほつがんによって、建立こんりゅうされました。 です …
●次へ→ ←前ヘ■ およそ歴史に「忍者」と言える者が初めて登場するのは『神武じんむ東征とうせい』、もしくは、 日向ひむかより大和やまとへ遷都せんとする『神武じんむ東遷とうせん』に際し活躍した「道臣命みちのおみ …