秦氏千年の計27 宗教を政争の具にする人々
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寧《ねい》。ねね。おね。
関白秀吉の妻 北政所《きたのまんどころ》。朝廷より賜った従一位《じゅいちい》は将軍と同じ位階である。
後年は大坂城を出て出家し、高台院《こうだいいん》となった。
生まれ年は諸説あり、天文11年(1542年)説、天文17年(1548年)説、天文18年(1549年)などが有る。
元々「関白《かんぱく》」の妻が北政所《きたのまんどころ》になるのであるが、従一位《じゅいちい》は破格の位階であった。
これは、秀吉政権においての朝廷対応を秀吉が妻である北政所(ねね)に任せ、彼女に対する朝廷の評価が高かった事を現している。
ポルトガルのカトリック司祭で宣教師のルイス・フロイスは『日本史』に「彼女は異教徒だが大変な人格者」と記しており、人間の価値はその『人間性』で評価されるべきだと良く解る逸話ではないだろうか。
北政所(ねね)は政務上「黒印状《こくいんじょう》」を発行していた。ちなみに、夫の関白 秀吉は朱印状《しゅいんじょう》である。
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『絹本着色けんぽんちゃくしょく高台院こうだいいん像』 後年の寧ねい(ねね)は出家して高台院こうだいいんとなった。 高台寺こうだいじ 所蔵 名古屋市博物館 収蔵 北政所きたのまんどころ(寧ねい)が有馬 …
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