秦氏千年の計18 日本の女性差別の始まり
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古墳《こふん》と言われる物は、農地開発で出た残土をまとめ、平らに造成された農地の水害避難用の高台として発展した、出雲の四隅突出型墳丘墓《よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ》や、円墳と四隅突出型が合体した前方後円墳 《ぜんぽうこうえんふん》が有名である。
のちに墳墓《ふんぼ》の性質が強くなり巨大化していくが、大化2年(646年)に発布された薄葬令《はくそうれい》の古墳小型簡素化や、堤防の開発で廃れた。
しかし、現代においても水害時の避難地に活用されている。
「古墳群」と言われる墳墓《ふんぼ》の無い物は、純然たる農地開発から出た残土の「ボタ山群」である。
特に避難用に進化し、平らな部分が張り出した「前方後円墳《ぜんぽうこうえんふん》」は、大和盆地を始め日本列島各地・朝鮮半島南部でも造成された。
水害避難用の平らな部分を中心に造成される「四隅突出型墳丘墓《よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ》」は、吉備・山陰・北陸の各地で造成された。
古墳の方位がマチマチなのは避難地だからである。
エジプトのピラミッドも、当初の用途は同じ「洪水時の避難地」である。
ピラミッドはのちに、天上を写し取る意味合いと方位が整えられたが、「ナイル川の氾濫」と切り離される事は無かった。
天皇および御皇族の御崩御の際の、殉死(後追い自殺)を防ぐ案を第11代 垂仁《すいにん》天皇が募られた処、
天覧相撲で有名な石加工の野見氏、出雲の野見宿禰《のみのすくね》は土部《はじべ》百人を出雲から呼び寄せ、「埴輪《はにわ》」を殉死者の身代りとして作り、墳墓《ふんぼ》へ天皇の御遺体と共に埋葬する、殉死防止策を考案した。この事が、古墳の巨大墳丘墓《ふんきゅうぼ》化と深くかかわっている。
土部《はじべ》は、垂仁天皇より土師職《はじのつかさ》・土師臣《はじのおみ》を賜り以後「土師《はじ》」を名乗り、天皇家の葬送儀礼《そうそうぎれい》を行うようになった。古墳からは多くの土師器《はじき》が出土する。
古墳の造成に当たった土師《はじ》氏の人々は古墳が造られなくなっても、僧侶で初代 大僧正《だいそうじょう》行基《ぎょうき》菩薩と共に道路の開発造成や、第45代 聖武《しょうむ》天皇の御代「奈良の大仏」東大寺 盧舎那仏像《とうだいじ るしゃなぶつぞう》の鋳造時の盛り土の造成にも、その高い土木技術を発揮した。
堤防の開発で水害も減り、道路の開発造成、海の埋め立てや干拓などに、農地開発で出る残土が活用されると、ボタ山が造られ無くなる。
海を埋め立てた古墳も造成されるが、「埴輪《はにわ》」を埋めるなどして墳墓《ふんぼ》の性質が強くなり立ち入れなくなると、水害の避難地の意味を失ってしまう。
『大化の改新』の薄葬令《はくそうれい》や、仏教による「輪廻転生《りんねてんしょう》」が殉死の意味を失わせるなどの宗教感の変化も有り、「御陵《みささぎ》」はまとめられ、「古墳」と言われる物は造成されなくなっていった。
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