秦氏千年の計39 穴穂部皇子の最期
●次へ→ ←前ヘ■ しかし感情が爆発する寸前なのは、そこに居る天皇すめらみことの臣下しんかたちの方で、務めを果たした三輪 逆みわの さかうとその二人の子を、咎人とがびととして処刑した守屋もりやへ、 今にも斬りか …
天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)のこと。
天照大御神の息子である天忍穂耳尊(アメノオシホミミのミコト)と、高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)の娘である栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメノミコト)の息子。
天照大御神の孫。天孫(アメミマ・テンソン)
葦原中国《あしはらのなかつくに》の主として天降《あまくだ》り、猿田彦の案内で日向国《ひむかのくに》高千穂峰へと至った。
木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)との間に、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト・山幸彦)など三柱をもうける。
曾孫は初代『神武天皇』。
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●次へ→ ←前ヘ■ この非常識な行為に、三輪 逆みわの さかうは兵衛つわもののとねりを招集し、殯宮もがりのみやの門を固く閉じて侵入を阻はばみますが、穴穂部皇子あなほべのみこは七度ななたびに渡り夜這よばいました。 …
●次へ→ ←前ヘ■ 敏達びだつ14年(585年)3月、「廃仏派はいぶつは」の物部守屋もののべの もりやは、 「疫病やくびょうは仏教信仰のせい」として、大連おおむらじの権限を乱用し、 蘇我馬子そがの うまこが …
●次へ→ ←前ヘ■ 聖徳太子しょうとくたいしは「厩戸うまやど」でお生まれになられた厩戸皇子うまやとのおうじとしても知られるのですが、太子たいしを表す御名おんなとして、 「豊聡耳とよとみみ」との表記の方が多く見ら …
聖徳太子しょうとくたいしと百済観音くだら かんのん(聖徳宗総本山 法隆寺) 法隆寺ほうりゅうじは、聖徳太子しょうとくたいしの御父君にあらせられる用明ようめい天皇の発願ほつがんによって、建立こんりゅうされました。 です …
●次へ→ ←前ヘ■ およそ歴史に「忍者」と言える者が初めて登場するのは『神武じんむ東征とうせい』、もしくは、 日向ひむかより大和やまとへ遷都せんとする『神武じんむ東遷とうせん』に際し活躍した「道臣命みちのおみ …
●次へ→ ←前ヘ■ 明治10年(1877年)1月11日、かつて薩摩と呼ばれた鹿児島に川路利良かわじ としよしの許可の元、鹿児島出身の中原尚雄なかはら なおおら警視庁職員24名が帰郷ききょうします。 西郷さいご …
●次へ→ ←前ヘ■ 織はとり・服部はとりの衣服に関わる渡来系技能者とらいけいぎのうしゃの中に、服部はっとりを名乗り「謀術ぼうじゅつ」を用もちいる忍者が混ざっていて、日本に対し何らかの忍者活動を仕掛けていたのか、 …
●次へ→ ←前ヘ■ 住吉すみのえの 波豆麻公之はづまのきみが 馬乘衣うまのりごろも 雜豆﨟さいづらう 漢女乎座而あやめをすえて 縫衣叙ぬえるころもぞ 住吉すみのえの 波豆麻はづまの君きみが 馬乗衣うまのりごろ …
徐福じょふく 伊賀いがの歴史書『忍秘伝にんぴでん』に出てくる御色多由也おいろたゆやは徐福じょふく自身か、或いは彼と共に日本へ渡来した人物と云われる。 下野げやする西郷隆盛さいごう たかもりに付いて行く者も多かった …