秦氏千年の計38 寵臣・三輪 逆
この非常識な行為に、三輪 逆みわの さかうは兵衛つわもののとねりを招集し、殯宮もがりのみやの門を固く閉じて侵入を阻はばみますが、穴穂部皇子あなほべのみこは七度ななたびに渡り夜這よばいました。 けれども殯宮もがりのみや …
我が国と日本国民、世界平和と人々の幸せを祈念し言祝《ことほ》がれる存在。
日本国民の総氏神《そううじがみ》にあらせらるる【天照大御神《あまてらすおおみかみ》】をお祀《まつ》りし、毎年の元日に天地四方の神祇《じんぎ》を拝され年災消滅《ねんさいしょうめつ》・五穀豊穣《ごこくほうじょう》を祈られる「四方拝《しほうはい》」や、11月23日に天神地祇《てんじんちぎ》すべての神々の恵みに感謝し五穀の新穀《しんこく》をお供えし自ら食される「新嘗祭《にいなめさい》」など、
国家と国民の安寧を祈願する祭祀《さいし》の大祭司《だいさいし》にして、かんながら(神道)における最高神官。
『北極星』のこと。北斗七星。妙見《みょうけん》。北辰《ほくしん》。天皇大帝《てんのうたいてい・てんのうだいてい・てんおうだいてい》
大王《おおきみ》。皇《すめらぎ・すめらき》。皇尊《すめらみこと》。天朝《すめらみこと》。天子《てんし》。帝《みかど》。御上《おかみ》。陛下《へいか》。宮《みや》
奉られる場合の社号『神宮《じんぐう》』。
「天皇」と言えば今上天皇のこと。「○○天皇」と言えば歴代天皇のこと。
天皇は【天照大御神】の直系子孫であり、タカマガハラにおいて【天照大御神】が構築した『母系社会』の中に今なお内包される存在と言える。そのため他の『母系(女系)』を許さない。
【天照大御神】が女神である以上、天皇はすでに女系である。他の女系は【天照大御神】系では無く天皇では無い。
【天照大御神】を母神『聖母』とする『母子神信仰』の子供神『御子《みこ》・神子《みこ》・皇子《みこ》』に当たる。
【天照大御神】(聖母)系であっても、母親となりその子が天皇(御子)に即位すると、その母親は【天照大御神】(聖母)に取っ手替わってしまうことになる。これを防ぐため、男系のみ天皇とすることを護り続けている。
これまでに女性天皇は存在した。しかし御結婚なさってはイケなかったり。夫が天皇で息子を天皇に即位させるための繋ぎだったりと、制限が掛かる。
天皇の娘『皇女《こうじょ・ひめみこ》』は、倭姫命《やまとひめのみこと》が【天照大御神】をお祀りする場所を探して廻られ伊勢の地に納まった。
詰まり現在の『伊勢神宮』であるが、それ以来、未婚の歴代皇女が天皇の御名代として伊勢神宮にお仕えする『斎王《さいおう》・斎皇女《いつきのみこ》・斎宮《いはいのみや》』や、神功皇后《じんぐうこうごう》が斎宮を建て【天照大御神】をお祀りし、自ら神主になられた。
このように、御皇族ゆかりの女性は聖なる存在として神宮にお入りに成られる。
現代において『斎王』はなくなっているが、葵祭《あおいまつり》で『斎王代《さいおうだい》』が一般女性から選ばれ身を清められる。そして、現在の伊勢神宮 祭主(伊勢神宮にのみ置かれる神職)は先の天皇の御皇女だった方が勤められている。
天皇の在り方は「如何《いか》に聖母【天照大御神】を蔑《ないがし》ろにしないか」で構築されている。
天照大御神 → アメノヲシホミミノミコト(天照の息子) → アマツヒコヒコホノニニギノミコト(天孫降臨・天照の息子の息子) → ヒコホホデミノミコト(山幸彦・天照の息子の息子の息子) → アマツヒダカヒコナギサタケウガヤフキアヱズノミコト(天照の息子の息子の息子の息子) → カムヤマトイワレビコノスメラミコト(初代 神武天皇・天照の息子の息子の息子の息子の息子) → 今上天皇
この非常識な行為に、三輪 逆みわの さかうは兵衛つわもののとねりを招集し、殯宮もがりのみやの門を固く閉じて侵入を阻はばみますが、穴穂部皇子あなほべのみこは七度ななたびに渡り夜這よばいました。 けれども殯宮もがりのみや …
敏達びだつ14年(585年)3月、「廃仏派はいぶつは」の物部守屋もののべの もりやは、 「疫病やくびょうは仏教信仰のせい」として、大連おおむらじの権限を乱用し、 蘇我馬子そがの うまこが造営ぞうえいした仏舎ぶっしゃ …
聖徳太子しょうとくたいしは「厩戸うまやど」でお生まれになられた厩戸皇子うまやとのおうじとしても知られるのですが、太子たいしを表す御名おんなとして、 「豊聡耳とよとみみ」との表記の方が多く見られます。 これは、一度に1 …
聖徳太子しょうとくたいしと百済観音くだら かんのん(聖徳宗総本山 法隆寺) 法隆寺ほうりゅうじは、聖徳太子しょうとくたいしの御父君にあらせられる用明ようめい天皇の発願ほつがんによって、建立こんりゅうされました。 です …
およそ歴史に「忍者」と言える者が初めて登場するのは『神武じんむ東征とうせい』、もしくは、 日向ひむかより大和やまとへ遷都せんとする『神武じんむ東遷とうせん』に際し活躍した「道臣命みちのおみのみこと」が最初となりましょ …
明治10年(1877年)1月11日、かつて薩摩と呼ばれた鹿児島に川路利良かわじ としよしの許可の元、鹿児島出身の中原尚雄なかはら なおおら警視庁職員24名が帰郷ききょうします。 西郷さいごうと共に下野げやした谷口登太 …
織はとり・服部はとりの衣服に関わる渡来系技能者とらいけいぎのうしゃの中に、服部はっとりを名乗り「謀術ぼうじゅつ」を用もちいる忍者が混ざっていて、日本に対し何らかの忍者活動を仕掛けていたのか、 それとも、徐福じょふくが …
住吉すみのえの 波豆麻公之はづまのきみが 馬乘衣うまのりごろも 雜豆﨟さいづらう 漢女乎座而あやめをすえて 縫衣叙ぬえるころもぞ 住吉すみのえの 波豆麻はづまの君きみが 馬乗衣うまのりごろも さひづらふ 漢女あやめを …
徐福じょふく 伊賀いがの歴史書『忍秘伝にんぴでん』に出てくる御色多由也おいろたゆやは徐福じょふく自身か、或いは彼と共に日本へ渡来した人物と云われる。 下野げやする西郷隆盛さいごう たかもりに付いて行く者も多かった …
これまでも「尊号一件そんごういっけん」など、 徳川時代よりも以前の伝統でんとうと古例これいを遵守じゅんしゅしようとする光格こうかく天皇と、 新儒学じゅがく『朱子学しゅしがく』の理屈りくつを正当とする徳川幕府の老中ろ …