戦国時代に、天下布武を以って既存概念を打ち壊し、文化による新秩序を確立しようとする魔王が日本に出現しました。
それが、仏教界から第六天魔王と恐れられた織田信長です。
御茶湯御政道は、織田信長が家臣に茶道具を与えて『茶の湯』を開くことを許可する物で、
『茶の湯』の教養が即ち、「武家儀礼の資格」となり、
信長の認めた千 利休による新たな『茶の湯』の価値観が構築されると、
戦国時代の下剋上の代にあって、『茶の湯』と言う文化による政治秩序を確立しようとします。
千 利休
信長は功績で『茶会』を開く資格を与えるが、認められていた武将は、柴田勝家・丹羽長秀・明智光秀・羽柴秀吉(後の 豊臣秀吉)の、四人衆だけであった。
千 利休は、『書院の茶』を監督した能阿弥の弟子より東山の『茶の湯』を学んだ北向道陳を最初の師匠とし、
その後道陳から交友の有った武野紹鴎を紹介され、紹鴎より村田珠光の考案した『草庵の茶』を学びました。
「術は紹鴎、道は珠光より」と、利休がしているのはそのためです。
また、やはり武野紹鴎の門人であった辻 玄哉は、連歌師にして茶道の一派「松尾流」の始祖であり、
玄哉が紹鴎より授けられた「小壷」取り扱いの秘伝は、玄哉より千 利休へと授けられていますから、
利休は玄哉にも師事していました。
千 利休は大坂は堺の実質的支配者、三好氏の御用商人として財を成すと、
村田珠光が愛した4つの「珠光茶碗」の内が一つ、青くなり損ねる青磁の「名物(清玩名物記)」を金千貫で譲り受け、
当初これを用いた茶会を催していますから、すでに珠光の『わび茶』への傾倒が顕れており、
『茶の湯』は、世にも華やかで且つ洗練された時代を迎えて行きます。
京都 妙喜庵には、千 利休が作った唯一現存する茶室、国宝「待庵」が在ります。
永禄12年(1569年)以降、堺が織田信長の直轄地に成ると千 利休は、
堺の自治組織「会合衆」の一員に成り、天正3年(1575年)越前の一向一揆を掃討する鉄砲玉を調達し、信長より謝状が送られました。
そして、豪商茶人である今井宗久・津田宗及と共に、信長の『茶の湯』を司る茶堂として召し抱えられると、信長の命で『茶会』を開いています。
織田信長は臣下に対し、自由に『茶会』を開くことを禁止しました。
さらに『茶会』を通して、『数寄者』から「天下の名物」と云われる茶器や茶道具・書画などを召しあげ蒐集すると、
これを功労のあった臣下に褒美として下賜しすると共に、
実績の格別にある臣下だけに『茶会』の許可を与え、美術品を財貨の対象にした初めての人物となります。
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豪快茶人伝 (角川文庫) 文庫 火坂 雅志 (著)
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