秦氏千年の計30 御茶湯御政道

 戦国時代に、天下布武てんかふぶって既存概念きそんがいねんこわし、文化による新秩序しんちつじょを確立しようとする魔王まおうが日本に出現しました。

 それが、仏教界から第六天魔王だいろくてんまおうと恐れられた織田信長おだ のぶながです。
 

 御茶湯御政道おちゃのゆ ごせいどうは、織田信長おだ のぶながが家臣に茶道具を与えてちゃを開くことを許可する物で、

 ちゃの教養がすなわち、武家儀礼ぶけ ぎれいの資格」となり、

信長のぶながの認めた千 利休せんの りきゅうによる新たなちゃの価値観が構築されると、

 戦国時代の下剋上げこくじょうにあって、ちゃと言う文化による政治秩序ちつじょを確立しようとします。
 

千 利休せんの りきゅう


信長のぶながは功績で茶会ちゃかいを開く資格を与えるが、認められていた武将は、柴田勝家しばた かついえ丹羽長秀にわ ながひで明智光秀あけち みつひで羽柴秀吉はしば ひでよし(後の 豊臣秀吉とよとみ ひでよし)の、四人衆だけであった。

 
 千 利休せんの りきゅうは、書院の茶しょいん  ちゃを監督した能阿弥のうあみの弟子より東山のちゃを学んだ北向道陳きたむき どうちんを最初の師匠ししょうとし、

 その後道陳どうちんから交友の有った武野紹鴎たけの じょうおうを紹介され、紹鴎じょうおうより村田珠光むらた じゅこう考案こうあんした草庵そうあんちゃを学びました。

 「わざ紹鴎じょうおうみち珠光じゅこうより」と、利休りきゅうがしているのはそのためです。
 

 また、やはり武野紹鴎たけの じょうおう門人もんじんであった辻 玄哉つじ げんさいは、連歌師れんがしにして茶道の一派「松尾流まつおりゅう」の始祖であり、

 玄哉げんさい紹鴎じょうおうよりさずけられた「小壷こつぼ」取り扱いの秘伝ひでんは、玄哉げんさいより千 利休せんの りきゅうへとさずけられていますから、

 利休りきゅう玄哉げんさいにも師事していました。
 

 千 利休せんの りきゅう大坂おおざかさかいの実質的支配者、三好みよし氏の御用商人として財を成すと、

 村田珠光むらた じゅこうが愛した4つの珠光茶碗じゅこう ちゃわんの内が一つ、青くなりそこねる青磁せいじ名物めいぶつ清玩せいがん名物記めいぶつき金千貫きん せんがんで譲り受け、

 当初これを用いた茶会をもよおしていますから、すでに珠光じゅこうわびちゃへの傾倒けいとうあらわれており、

 ちゃは、世にもはなやかで洗練せんれんされた時代を迎えて行きます。
 


京都 妙喜庵みょうきあんには、千 利休せんの りきゅうが作った唯一現存ゆいいつ げんそんする茶室、国宝待庵たいあんが在ります。
 

 永禄えいろく12年(1569年)以降、さかい織田信長おだ のぶなが直轄地ちょっかつちに成ると千 利休せんの りきゅうは、

さかいの自治組織「会合衆えごうしゅう」の一員に成り、天正てんしょう3年(1575年)越前えちぜん一向一揆いっこういっき掃討そうとうする鉄砲玉てっぽうだまを調達し、信長のぶながより謝状しゃじょうが送られました。

 そして、豪商茶人ごうしょう ちゃじんである今井宗久いまい そうきゅう津田宗及つだ そうぎゅうと共に、信長のぶながちゃつかさど茶堂ちゃどうとしてかかえられると、信長のぶながの命で茶会ちゃかいを開いています。
 

 織田信長おだ のぶながは臣下に対し、自由に茶会ちゃかいを開くことを禁止しました。

 さらに茶会ちゃかいを通して、数寄者すきしゃから天下てんか名物めいぶつと云われる茶器や茶道具・書画などを召しあげ蒐集しゅうしゅうすると、

これを功労こうろうのあった臣下しんか褒美ほうびとして下賜かししすると共に、

 実績じっせき格別かくべつにある臣下しんかだけに茶会ちゃかいの許可を与え、美術品を財貨の対象にした初めての人物となります。
 

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