秦氏千年の計47 天智天皇の最期と弘文天皇の誕生
●次へ→ ←前ヘ■ 蘇我安麻呂そがの やすまろは、蘇我馬子そがの うまこの曾孫ひまごに当たる人物で、大海人皇子おおあまのみこ(後の天武てんむ天皇)を病床びょうしょうの天智てんぢ天皇の元へ呼ぶ、使者ししゃの役を仰 …
「聖徳太子」は、後世の尊称・諡号《しごう》。
厩戸皇子《うまやどのみこ・うまやどのおうじ》。厩戸王。上宮王
飛鳥時代の皇族・政治家。
用明天皇の第2皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。
推古天皇の甥で、皇位継承順位第1位の皇太子として実務を行う。
渡来系の人材を登用。
冠位十二階を定め能力による人材登用を導入。
十七条憲法を制定。
遣隋使を実施し国書を持参させた、隋書には「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言が見られる。
朝鮮半島の伽耶《かや》国を失った日本は、外交のため遣隋使を送り。大陸の新しい文化と共に仏教の導入を積極的に行った。
ただ、当時の仏教が現在の受け止められ方と同じであったとは限らない。
渡来系の人材の中に東方キリスト教の信者が居たと考えられ、その結果
「厩戸《うまやど》で生まれた厩戸皇子」と呼ばれるなど、キリスト教伝来の影響が見られる。
当時の日本人にとって、仏教とキリスト教の差は、さほど無かったのかも知れない。
●次へ→ ←前ヘ■ 蘇我安麻呂そがの やすまろは、蘇我馬子そがの うまこの曾孫ひまごに当たる人物で、大海人皇子おおあまのみこ(後の天武てんむ天皇)を病床びょうしょうの天智てんぢ天皇の元へ呼ぶ、使者ししゃの役を仰 …
●次へ→ ←前ヘ■ 中大兄皇子なかのおおえのみこ(後の天智てんぢ天皇)と中臣鎌足なかとみの かまたりは国政改革こくせいかいかく「大化たいかの改新かいしん」を行い、 遣唐使けんとうしが持ち帰る情報を元に、儒学じ …
●次へ→ ←前ヘ■ 秋あきの田たの かりほおの庵いおの 苫とまをあらみ わが衣手ころもでは 露つゆにぬれつつ 天智てんぢ天皇 『後撰和歌集ごせんわかしゅう』秋中ー302 秋の田んぼの仮小屋かりごやの庵いおりで …
●次へ→ ←前ヘ■ あかねさす 紫野むらさきの行ゆき 標野しめの行ゆき 野守のもりは見みずや 君が袖きみ そで振ふる 額田王ぬかたの おおきみ 『萬葉集まんようしゅう』第38葉(巻1ー20) 茜色あかねいろ …
天智てんぢ天皇と、その皇女こうじょにあらせられた持統じとう天皇 小倉おぐら 百人一首ひゃくにんいっしゅ001 天智てんぢ天皇。 秋あきの田たの かりほおの庵いおの 苫とまをあらみ わが衣手ころもでは 露つゆにぬれつつ …
●次へ→ ←前ヘ■ 「常世物とこよもの この橘たちばなの いや照てりに わご大君おおきみは 今も見る如ごと」 大伴家持おおともの いえもち『萬葉州まんようしゅう』巻18ー4063 常世物とこよものは「橘た …
●次へ→ ←前ヘ■ 聖徳太子しょうとくたいしの側近である秦河勝はたの かわかつは、世阿弥ぜあみが記しるせし「 能のう 」の理論書『風姿花伝ふうしかでん』によると…… 欽明きんめい天皇の御代みよ、大和の国は奈良 …
●次へ→ ←前ヘ■ 推古すいこ天皇10年(602年)、百済くだらよりの法師ほうし 観勒かんろくが来朝らいちょうし、曆本れきほんおよび、天文地理てんもんちりの書、遁甲方術とんこうほうじゅつの書を朝廷へ献上し飛鳥寺 …
●次へ→ ←前ヘ■ 天武てんむ天皇は、兄の天智てんぢ天皇と同じ母親である斉明さいめい天皇(皇極こうぎょく天皇、2度御即位たびごそくいあそばす)から生まれた同母系兄弟です。 同じ母系の姉妹しまいや兄弟きょうだい …
●次へ→ ←前ヘ■ しかし感情が爆発する寸前なのは、そこに居る天皇すめらみことの臣下しんかたちの方で、務めを果たした三輪 逆みわの さかうとその二人の子を、咎人とがびととして処刑した守屋もりやへ、 今にも斬りか …