女性の権力は徳川幕府の朱子学政策の中で低下しますが、
戦国の代にあって絶大な影響力を有する女性たちが居ましたし、その女性たちと関係が深いとの周辺へのアピールは、
戦国武将にとって重要な政治戦略上の鍵でした。
豊臣秀吉と、後の「北政所」である寧(ねね)との結婚は、永禄4年(1561年)のことです。
清洲城主 織田信長の足軽組頭の娘であった寧13歳、同じく織田信長の足軽であった秀吉24歳、当時としては非常に珍しい恋愛結婚でした。
織田信長
手紙は代筆だが、寧が安土城に持参した土産への礼や、お返しがしたい旨も丁寧に書かれている。
天正9年(1581年)、織田信長は秀吉の妻となった寧 宛に、一通の手紙をしたためます。
「貴女の美貌もこのまえ会った時より、10の物が20へなる程に美しくなっている、
それなのに秀吉が何か不足を言っているとか、非常に、け・し・か・ら・ん 事だ!
どこを探しても貴女 以上の女性を二度と、あの“禿ねずみ”が、見付けることなど出来ないのだから、
正妻らしく堂々と上手に扱えば良いのだ。
追伸、
この手紙を秀吉にも見せること。天下布武」
これは、秀吉の浮気グセを寧が相談した、信長による心遣いの手紙でした。
最後に押してある、天下布武の朱印は、信長の認めた書面にのみ押される物ですから、この手紙が正式な文書である証となります。
親方様よりのこの手紙を見た秀吉の恐縮する様子が、皆様の目にも浮かぶのでは無いでしょうか。
一方、恋愛中 当時の、寧へ送った秀吉のラブレターは流石に残っていませんが、後年の物は30通程が残っており、それはとても熱烈な物で、
「貴女からこのごろ手紙が来ないので、心配になって私から出します、貴女からの返事を心待ちにしていますね」とか、
「今とても忙しい最中ですが、どうしても貴女に手紙を書きたくなって、筆をとってしまいました」とか、
どこかのお店の営業メールのような、
実は側室の、織田信長の姪である淀と一緒に、北条氏を攻めるために小田原に居るんだけれども、筆まめな秀吉は、
「一番“合う”のは、もちろん寧お前だ! 次が淀です……」などと書いています。
あれ程に筆まめだった秀吉からの手紙が突然、寧に届かなくなります。
「能の稽古が忙しく、何度も手紙を貰いながら返事は書けなくて――――」
これが、寧へ届く秀吉からの最後の手紙となりました。
淀との間に、秀吉の跡継ぎとなる秀頼が、生まれていたのです。
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