新しい徳川の代の価値観を構築し、戦国時代・安土桃山時代までの旧 価値観を壊滅すべく、徳川家康は次に、
「方広寺鐘銘事件」へ林 羅山を深く関わらせました。
徳川家康は長年の戦で荒れ果て放置されている、
神社仏閣の、新築・再建・修繕を「亡き太閤秀吉公の供養」と称し、豊臣家に進言していましたが、
これは豊富だった豊臣家の財力を削る目的も有ったのです。
その中に、地震の被害を被った京都東山に在る方広寺の再建と大仏開眼が有りました。
慶長19年(1614年)4月、林 羅山は頭を絞り、その中の新しく鋳造された梵鐘の銘文に目を付けます。
方広寺鐘銘事件
現在も方広寺に現存する梵鐘
『国家安康』と『君臣豊楽』を見ることが出来る。
『国家安康』は、「家康の名を分割して徳川家を呪詛し」、
『君臣豊楽』は、「豊臣家の繁栄を祈願するもの」とし、
さらに、『右僕射源朝臣家康』の「右僕射」は右大臣の意味であるのを、
「源朝臣である源 家康、詰まり徳川家康を射る意味だ」と難癖を付け非難して、方広寺の大仏開眼を延期させてしまいました。
これに対して豊臣側は、家康に言い訳をしますが、遂に同年、
慶長19年(1614年)10月、『大坂冬の陣』が、
さらに、
慶長20年(1615年)3月には『大坂夏の陣』が起こり豊臣家は滅亡してしまいます。
「方広寺鐘銘事件」から、11ヶ月後のことでした。
『大坂冬の陣』の開戦が決まると、
71歳の家康は、いつになく若やいだと云われます。
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