秦氏千年の計25 方広寺鐘銘事件

 新しい徳川の価値観かちかんを構築し、戦国時代・安土桃山あづちももやま時代までのきゅう 価値観かちかん壊滅かいめつすべく、徳川家康とくがわ いえやすは次に、

 方広寺ほうこうじ鐘銘しょうめい事件」林 羅山はやし らざんを深く関わらせました。
 

 徳川家康とくがわ いえやすは長年のいくさで荒れ果て放置されている、

神社仏閣の、新築・再建・修繕を「亡き太閤秀吉たいこう ひでよしこう供養くよう」と称し、豊臣とよとみ家に進言していましたが、

 これは豊富だった豊臣とよとみ家の財力を削る目的も有ったのです。
 

 その中に、地震の被害をこうむった京都東山きょうと ひがしやまに在る方広寺ほうこうじの再建と大仏開眼だいぶつ かいげんが有りました。

 慶長けいちょう19年(1614年)4月、林 羅山はやし らざんは頭を絞り、その中の新しく鋳造ちゅうぞうされた梵鐘ぼんしょう銘文めいぶんに目を付けます。
 

方広寺ほうこうじ鐘銘しょうめい事件


現在も方広寺ほうこうじに現存する梵鐘ぼんしょう
こっかあんこう』と『臣豊くんしんほうらく』を見ることが出来る。

 
 『こっかあんこう』は、「家康いえやすの名を分割して徳川とくがわ家を呪詛じゅそし」、

 『臣豊くんしんほうらく』は、「豊臣とよとみ家の繁栄はんえい祈願きがんするもの」とし、

 さらに、『右僕射うぼくや源朝臣みなもとのあそん家康いえやす』の「右僕射うぼくや」は右大臣うだいじんの意味であるのを、

 「源朝臣みなもとのあそんであるみなもとの 家康いえやす、詰まり徳川家康とくがわ いえやする意味だ」と難癖なんくせを付け非難ひなんして、方広寺ほうこうじ大仏開眼だいぶつ かいげんを延期させてしまいました。
 

 これに対して豊臣とよとみ側は、家康いえやすに言い訳をしますが、遂に同年、

 慶長けいちょう19年(1614年)10月、『大坂冬の陣おおざか ふゆ  じん』が、

 さらに、

 慶長けいちょう20年(1615年)3月には『大坂夏の陣おおざか なつ  じん』が起こり豊臣とよとみ家は滅亡してしまいます。
 

 方広寺ほうこうじ鐘銘しょうめい事件」から、11ヶ月後のことでした。

 『大坂冬の陣おおざか ふゆ  じん』の開戦が決まると、

 71歳の家康いえやすは、いつになくわかやいだと云われます。
 

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