天下分け目の「関ヶ原の戦い」のおり、豊臣秀吉の妻であった北政所こと寧(ねね)が、徳川側へ付いたのは隠すことの出来ない事実ですが、
なぜそのような事が起きたのか、様々な憶測が有りました。
秀吉の側室で、豊臣の跡継ぎ秀頼の母である淀と、寧の仲が悪かったとか、
寧と徳川家康との間を勘繰る説まで有ります。
確かに、家康は未亡人が好みだったのは事実でしたし、
家康と寧が頻繁に連絡しあい、寧の面倒を徳川が最後まで見たのも真実です。
しかし、淀と寧の仲は良好だったようですから、
寧が、淀や秀頼憎さに豊臣家を家康へ売ったと言うような、そんな物では無かったようです。
では寧に、何が有ったと言うのでしょう。
寧の侍女の中には、
林 羅山と『地球論争』で「地動説」や「地球球体説」を立論した、イエズス会の日本人修道士ハビアンの、その母親ジョアンナが居たのです。
その他の侍女にも、マグダレナと言うキリスト教徒も居り、秀吉が『伴天連追放令』を出した際には、
近畿から出て征くキリスト教徒たちに寧は食料を贈り、「秀吉に私が執成す」と約束までしていました。
ポルトガルのカトリック司祭にして宣教師であったルイス・フロイスは、『日本史』の中で寧の事を、
「彼女は異教徒だが大変な人格者で、頼んで解決できない事は無かった」と記しています。
徳川側はかつての仇敵だったイエズス会の元修道士ハビアンを、長崎でキリスト教徒の迫害へ協力させるように仕向けていますが、
先の、寧の行動と、元修道士ハビアンの行動には、何らかの共通点が有るのでは無いでしょうか?
慶長17年(1612年)、6年前に修道女と駈落ちしていた元修道士ハビアンが博多に現れ、その後は長崎でキリスト教徒取り締まりで徳川幕府に協力、
慶長17年から18年にかけて、徳川幕府が全国に『キリスト教禁教令』を発布するのに、まるで合わせたかのようです。
キリスト教禁教令が出たので、元修道士ハビアンは姿を顕し、徳川幕府に協力を申し出たのでしょうか?
それとも、徳川幕府がハビアンを把握していて、禁教令に合わせ、協力させたのでしょうか?
元修道士ハビアンは、キリスト教批判書『破提宇子』を著していますが、
徳川幕府に「書かされた」と言うのが本当の処だったでしょう。
詰まり、元修道士ハビアンは、
「禁教令に問われない替わりに、キリスト教徒取り締まりに協力させられていた。」
もちろんハビアン自身が『禁教令』に問われないと言うのも有ったでしょうが。
彼の母親も、キリスト教徒なのです。
かつての権力者、豊臣秀吉が『伴天連追放令』を出した際、彼の妻寧は、自分の侍女にキリスト教徒が居る事から彼らを支援しました。
では今はどうでしょう。
朝廷との関係も深かった北政所の時代、彼女は絶大な影響力と権力を持っていました。
しかし、今はあの頃とは違い、すでに徳川の代と為っているのです。
北政所黒印状(幸蔵主奉書)
北政所(寧)は黒印状を発行していた。
名古屋市博物館 収蔵
自分の侍女には、元修道士ハビアンの母親の他にもキリスト教徒が居ました。
時は第2代将軍 徳川秀忠の代です。
秀忠は、豊臣に人質として居たこともあり、寧の事を今でも「まんかかさま」と呼んでくれていますが、
何時、寧の侍女が『禁教令』に問われないとも限りません。
寧は、自分の近くのキリスト教徒を護ることに専念したのでは無いでしょうか。
その為には、徳川の言いなりになるしか無かったのでしょう。
元修道士ハビアンは、キリスト教取締の重要人物として江戸の徳川秀忠と面会した2年後の、元和7年(1621年)、長崎で死去します56歳でした。
関白太政大臣の妻 北政所こと寧は、武家出身の女性として朝廷より征夷大将軍と同じ従一位を賜り、位人臣を極めた人生でしたが、
彼女が望んだのは、そんな物では無かったのかも知れません。
寛永元年(1624年)、出家し高台院となっていた寧は、京都の高台寺で静かに76年の生涯を終えます。
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