秦氏千年の計27 宗教を政争の具にする人々

 天下分け目の「関ヶ原の戦い」のおり、豊臣秀吉とよとみ ひでよしの妻であった北政所きたのまんどころことねいねねが、徳川とくがわ側へ付いたのは隠すことの出来ない事実ですが、

なぜそのような事が起きたのか、様々な憶測おくそくが有りました。
 

 秀吉ひでよしの側室で、豊臣とよとみの跡継ぎ秀頼ひでよりの母であるよどと、ねいの仲が悪かったとか、

 ねい徳川家康とくがわ いえやすとの間を勘繰かんぐる説まで有ります。
 

 確かに、家康いえやすは未亡人が好みだったのは事実でしたし、

 家康いえやすねい頻繁ひんぱんに連絡しあい、ねいの面倒を徳川とくがわが最後まで見たのも真実です。

 しかし、よどねいの仲は良好だったようですから、

 ねいが、よど秀頼ひでよりにくさに豊臣とよとみ家を家康いえやすへ売ったと言うような、そんな物では無かったようです。

 ではねいに、何が有ったと言うのでしょう。
 

 ねいの侍女の中には、

 林 羅山はやし らざん地球論争ちきゅうろんそうで「地動説」や「地球球体説」を立論りつろんした、イエズス会の日本人修道士ハビアンの、その母親ジョアンナが居たのです。

 その他の侍女にも、マグダレナと言うキリスト教徒も居り、秀吉ひでよしが『伴天連追放令ばてれん ついほうれい』を出した際には、

近畿から出て征くキリスト教徒たちにねいは食料を贈り、「秀吉ひでよしに私が執成とりなす」と約束までしていました。
 

 ポルトガルのカトリック司祭にして宣教師であったルイス・フロイスは、『日本史』の中でねいの事を、

 「彼女は異教徒だが大変な人格者で、たのんで解決できない事は無かった」としるしています。
 

高台院こうだいいんねい


絹本着色けんぽんちゃくしょく高台院こうだいいん像』高台寺こうだいじ 所蔵

 
 徳川とくがわ側はかつての仇敵だったイエズス会の元修道士ハビアンを、長崎でキリスト教徒の迫害へ協力させるように仕向けていますが、

 先の、ねいの行動と、元修道士ハビアンの行動には、何らかの共通点が有るのでは無いでしょうか?
 

 慶長けいちょう17年(1612年)、6年前に修道女と駈落かけおちしていた元修道士ハビアンが博多に現れ、その後は長崎でキリスト教徒取り締まりで徳川幕府に協力、

 慶長けいちょう17年から18年にかけて、徳川幕府が全国に『キリスト教禁教令きんきょうれい』を発布はっぷするのに、まるで合わせたかのようです。
 

 キリスト教禁教令きんきょうれいが出たので、元修道士ハビアンは姿をあらわし、徳川幕府に協力を申し出たのでしょうか?

 それとも、徳川幕府がハビアンを把握はあくしていて、禁教令きんきょうれいに合わせ、協力させたのでしょうか?

 元修道士ハビアンは、キリスト教批判書ひはんしょ破提宇子は・だいうす』をあらわしていますが、

徳川幕府に「書かされた」と言うのが本当の処だったでしょう。
 

 詰まり、元修道士ハビアンは、

 「禁教令きんきょうれいに問われない替わりに、キリスト教徒取り締まりに協力させられていた。」

 もちろんハビアン自身が『禁教令きんきょうれい』に問われないと言うのも有ったでしょうが。

 彼の母親も、キリスト教徒なのです。
 

 かつての権力者、豊臣秀吉とよとみ ひでよしが『伴天連追放令ばてれん ついほうれい』を出した際、彼の妻ねいは、自分の侍女にキリスト教徒が居る事から彼らを支援しました。

 では今はどうでしょう。

 朝廷との関係も深かった北政所きたのまんどころの時代、彼女は絶大な影響力と権力を持っていました。

 しかし、今はあの頃とは違い、すでに徳川のと為っているのです。
 

北政所きたのまんどころ黒印状こくいんじょう幸蔵主奉書こうぞうす ほうしょ


北政所きたのまんどころねい)は黒印状こくいんじょうを発行していた。
名古屋市博物館 収蔵

 
 自分の侍女には、元修道士ハビアンの母親の他にもキリスト教徒が居ました。

 時は第2代将軍 徳川秀忠とくがわ ひでただです。

 秀忠ひでただは、豊臣とよとみ人質ひとじちとして居たこともあり、ねいの事を今でも「まんかかさま」と呼んでくれていますが、

 何時いつねいの侍女が『禁教令きんきょうれい』に問われないとも限りません。
 

 ねいは、自分の近くのキリスト教徒を護ることに専念したのでは無いでしょうか。

 その為には、徳川とくがわの言いなりになるしか無かったのでしょう。
 

 元修道士ハビアンは、キリスト教取締の重要人物として江戸の徳川秀忠とくがわ ひでただと面会した2年後の、元和げんわ7年(1621年)、長崎で死去します56歳でした。
 

 関白太政大臣かんぱく だじょうだいじんの妻 北政所きたのまんどころことねいは、武家出身の女性として朝廷より征夷大将軍せいいたいしょうぐんと同じ従一位じゅいちいたまわり、位人臣くらいじんしんきわめた人生でしたが、

 彼女が望んだのは、そんな物では無かったのかも知れません。

 寛永かんえい元年(1624年)、出家し高台院こうだいいんとなっていたねいは、京都の高台寺こうだいじで静かに76年の生涯を終えます。
 

 次→ 

秦氏千年の計28『茶の湯』への道

 ←戻る

秦氏千年の計26 戦国武将からの手紙

 関連記事

ねい ねね・関連資料

捨身飼虎しゃしんしこ1【神の中立】と【仏の共感】

アマビエと『まれびと』信仰1

なぜ「映画のジャイアンはカッコいい」のか1『四魂』と『まれびと』

いつもありがとうございますm(_ _)m
                  
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識(歴史)へ
歴史の豆知識(歴史)にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA