秦氏千年の計49 宗教者・芸能者・遊女としての歩き巫女

 出雲阿国いずものおくにたちのような職業をある巫女みこと言い、阿国おくには当初、出雲大社いずものおおやしろに属していましたが、そのほとんどのある巫女みこが神社などに所属しょぞくせず、

はらいや、霊を自分に憑依ひょういさせる口寄くちよせなどの宗教儀礼しゅうきょうぎれい、または芸能げいのう、もしくは遊女ゆうじょねている者も居たとも云います。
 

 あるいは、巫女村各戸みこむら かくこ抱主かかへぬしが、巡礼で各地をまわる際に、8歳から16歳の少女を、年期ねんきさだめてか、養女ようじょとしてスカウトして連れ帰り、

先輩に付け3〜5年修行させ一人前になると、

15㎝ほどの案山子くくのち像・5㎝ほどの仏像ぶつぞう猫頭ねこあたま干物ほしもの白犬しろいぬ頭蓋骨ずがいこつ雛形ひながた藁人形わらにんぎょう

 などと、身の回りのものをあらかた持って各地を訪れました。
 

 すると地元住民は彼女らを歓迎し、従者に槍を持たせ外出できる身分くらいの物持ちになるある巫女みこも居て、

 「各地を通行手形も持たずに行き来できる」と言う伝説まで有り、

気前よく金を使い、旅先での借金は必ず返し、聖職者のため肉食は禁じられ、

 その性質から、足長坊主あしながぼうずと呼ばれた武田信玄たけだ しんげん忍者くノ一くのいちとしてある巫女みこを使うなどしたとも伝わり、

 明治初期辺りまで、大阪の河内長野市かわちながのし 近辺にやって来ていたと云います。
 

新 吉原遊廓しん よしわら ゆうかく 1872年


明治5年(1872年)頃の東京都吉原地区よしわら ちくの写真

 
 徳川家康とくがわ いえやす天正てんしょう18年(1590年)8月1日、多数の家臣団をひきいて江戸に入府にゅうふしました。

 それだけでは有りません、江戸建設のために集められた職人や、戦乱が終り職にあぶれる浪人者たちで、江戸の男女比は圧倒的に男性が多く、

これを当て込んだ遊女屋ゆうじょやが数ヶ所営業を始めます。
 

 風魔小太郎ふうまの こたろう小田原北条おだわら ほうじょう氏につかえる忍者でしたが、豊臣秀吉とよとみ ひでよし小田原北条おだわら ほうじょう氏を滅ぼすと、

国替くにがえでやって来た徳川家康とくがわ いえやすが治める関東を、盗賊となり荒らし回りました。

 風魔小太郎ふうまの こたろうは遂に家康いえやすに捕えられ、張り付けに処されたのですが、その配下の者たちは徳川支配の江戸に溶け込んで行きます。
 

 ここにある巫女みこたちを集め、江戸は現在の東京都中央区日本橋人形町に遊廓ゆうかくを形成する者が現れました。

 かつてこの辺りは、イネ科ヨシ属の原っぱで「葭原よしわら」と云いそれより吉原遊廓よしわら ゆうかくと言います。

 庄司甚右衛門しょうじ じんえもんはかつて、小田原北条おだわら ほうじょう氏につかえた風魔一党ふうまの いっとう配下の者とも云われ、

 徳川幕府は、遊廓ゆうかくと言う特殊な状態で得られる情報と引き換えに、

この元忍者庄司甚右衛門しょうじ じんえもん惣名主そうだいぬしとして元和げんわ3年(1617年)、江戸初の遊廓ゆうかくを許可しました。
 

 そして後に彼らは、8つの徳目である、

 こうていちゅうしんれいれんを忘れてしまった、

 もしくは、「客に忘れさせる」者たち、忘八者ぼうはちものと呼ばれるのです。
 

明暦の大火めいれき  たいかで浅草へ移転するまで最初の吉原遊廓よしわら ゆうかくが在った元吉原もと よしわら、現在の日本橋人形町二丁目、大門通おおもん どおの名が残る。

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秦氏千年の計50『歌舞伎かぶき vs 吉原遊廓よしわら ゆうかく』江戸時代の女性がまげいだしたわけ

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