「遊廓」が徳川幕府より正式に認可を得ると、歌舞伎にとって大きなライバルと成りました。
何せやってる人もやってる事も、基本的には同じですから、しかも行き着く処も結局は同じでそれ以上は無いのです。
こうなると、エスカレートして行くのは認可事業では無い歌舞伎の方で、タブーと思われる表現へと行き着きました。
元々、着物の裾をまくり上げた女歌舞伎は、大股開きで生足を曝け出すと云った物でしたが、江戸期には更に扇情的と成り、
遂には寛永6年(1629年)、「風紀・風俗を乱す」という理由で女歌舞伎は禁止されてしまいます。
ところが、女歌舞伎の代替として始まった若衆歌舞伎の公演ですが、大人気を博しました。
若衆歌舞伎とは、元服前の男の子たちが、今度は女性役となり基本的には女歌舞伎とそうは変わらぬ出し物です。
これが「可愛い、可愛い」と大評判になりました。
誰にかと言うと、男性に大人気となり、元々の女歌舞伎のファンから女性から何から若衆歌舞伎へと雪崩込みます。
品 川 遊 廓 の遊女
美南見 十二候 九月(漁火)
「遊廓で遊女がくつろいでいる図」
こうなると、うかうかして居られ無いのは遊廓の方で、若衆歌舞伎で結われている若衆髷を遊廓でも採用して、これが町娘へも波及しました。
なにせ、男性に大人気なのですから、自然とそう成りますよね。
江戸時代になると、日本の歴史上で初めて一般の女性が髷を結い出したのは、これが原因です。
これまでも、天照大御神がスサノオを迎え撃とうと、男性と同じ角髪を結うシーンが登場しますし、
巴御前のような「女武者」たちが兜を被るために、髪を束ねるような事も有ったでしょう。
刀を下げて烏帽子を被り舞う「白拍子」たちもユニセックスの先駆者として居ました。
しかし、一般女性まで挙って髷を結うなど、これまでは無かった事です。
男性が好きな男性と言うのは、何時の時代も有りますようで、徳川の時代では何と言っても3代将軍 家光がそうでしょう。
人の趣向もそれぞれですから良いのですが、ただ「お世継ぎ問題」に関わる事柄だったので、
「お好きになさってください」とは言えない方々も居たのです。
初期の大奥を作った春日局は、家光に興味を持ってもらおうと、
ある時は「尼」、またある時は「小姓」の格好を女性たちにさせて家光の気を引こうとしました。
そんな中で家光が興味を示したのが、本物の町娘だったのです。
これが『玉の輿』伝説の始まりでした。
お玉の方は、云われている八百屋の娘さんでは無く、実際には京の都は西陣織屋の娘さんらしいのですが、
何にしても、強い封建制度の中に有り、低い身分の出身から5代将軍 綱吉の生母「桂昌院」にまで昇り詰めたのですから、大した物では無いでしょうか。
そして、武家の世界の女性たちにも髷が流行したのは言うまでもありません。
東海道最初の宿場町であった品川宿には幕末ごろ90軒あまりの遊廓が軒を連ねた。
男たちに大人気だった、あの若衆歌舞伎がどうなったかと言うと…… 承応元年(1652年)に女歌舞伎と同じ理由で禁止され、
その翌年になる承応2年(1653年)、若衆髷の前髪を剃り落して野郎頭になった野郎歌舞伎が生まれます。
しかし前髪を剃ってしまった野郎頭は可愛気が無く、さっぱり人気が出ません。
そこで、前髪の剃った部分を手拭いや「への字」に折った紙で隠したり、「物真似狂言尽」詰まり、内容に寄って勝負しました。
これが現在の歌舞伎の原型と成ったのです。
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歌舞伎・関連資料
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アマビエと『まれびと』信仰1
中世の非人と遊女 (講談社学術文庫) 網野 善彦 (著)
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