新儒学『朱子学』は徳川幕府にとって、戦国時代・安土桃山時代までの旧秩序を、
徳川時代の新秩序で塗り替えてしまうための、無くてはならない道具でした。
これまでも、旧い秩序から新しい秩序へと塗り替える作業は、新たなる支配者によって何度も行われて来たことです。
強力な権力を保持する奈良仏教から脱するため、京へ都を遷都して伝教大師 最澄・弘法大師 空海に新仏教を開かせた桓武天皇や、
その最澄の開いた比叡山を焼き討ちする織田信長も、
強くなった京の仏教勢力を攻撃することで、旧来よりの秩序を壊そうとする新たな支配者でした。
そして、日本仏教の同性愛主義と相容れぬイエズス会のキリスト教布教を許すのです。
では、織田信長が構築した安土桃山時代までの新秩序とは何で有り、またどのように維持されて来たのでしょうか?
織田信長が新しく構築した新秩序。
それは、『茶の湯』です。
『茶の湯』は『茶湯』とも言い、平安時代の遣唐使だった最澄や空海が、団茶と呼ばれる固形に加工されたお茶を唐(618年ー907年)より持ち帰ると、
嗜好品では無く、薬として必要量のみ煎じて呑んでいました。
この頃の茶の色が云わゆる「茶色」です。
また、これがやがて煎茶へ発展して行きました。
明菴栄西
茶の種を持ち帰った明菴栄西。
日本の『茶の道』はここより始まった。
平安時代末期から鎌倉時代初頭に比叡山で出家し、後に臨済宗の開祖となる僧侶、明菴栄西が、
南宋(1127年ー1279年)にて学んだ禅宗を、日本へ持ち帰った際に、そこへお茶の種も入っていたのです。
ここより日本でのお茶の栽培が始まり、茶の点て方や、香りや味から銘柄を当てる博打「闘茶」が催されるようになると、
お茶は、武家やごく一般の庶民にまで広まって行きました。
そして大金を用い、チャイナの茶器「唐物」を蒐集し、盛大な茶会を催す「唐物数寄」が、
「応仁・文明の乱」で政情が不安定になる15世紀の後半ごろまで、大名の間に流行します。
武家の間でのあまりの流行に、「建武式目」で禁止される程でした。
道元禅師
一つの薬缶のお茶を僧侶たち皆が分け合い呑み、心を一つとする和合の「茶礼」を著す道元禅師。
曹洞宗を開いた道元禅師は、茶を供する際の儀式「茶礼」を『永平清規』に著し、
禅寺の僧堂修行として、1日に数回行われるの茶の儀礼は、
一つの薬缶のお茶を僧侶たちが皆で分け合い呑むことにより、心を一つとする和合の意味合いを持ち、これが『茶の湯』の原型となります。
能阿弥
(水墨画。国宝・重要文化財)
「あけぬ暮ぬ ねがふはちすの 花のみを まつあらはせる 一筆ぞこれ 老能七十五歳」
最晩年の小品である。
銀閣寺の 東山山荘で有名な「数寄」の道の探求者、室町幕府 第8代将軍 足利義政は出家して事実上政務から離れ、妻の日野富子に任せてしまうと、
義政に仕える芸能集団「同朋衆」の、水墨画・連歌・華道・香道に優れる能阿弥に、
従来の「闘茶」の会所の方式を元として「唐物」の茶道具は飾りますが、書院造の四畳半で禁欲的な精神性を重視する『書院の茶』を監督させました。
【大山咋神】「山王信仰を利用するは我にあり!」霊的支配と徳川一族の野望!!【日枝神社】(壱の巻)
茶の本 (岩波文庫) 文庫 岡倉 覚三 (著), 村岡 博 (翻訳)
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