北村 格太郎が、子供達の隠れん坊の相手をしてやってうっかり長持の中で息絶えてからと言うもの、
悲劇の妻を演じ続ける「お勢」こと北村 勢子は、やっと夫の一回忌を本日、迎えることが出来た。
「正ちゃん、もうお坊様がいらっしゃいますよ、お父様のお仏壇にお線香を上げておいてね。」
お勢は何度目かの喪服の着付けをしながら、格太郎の死に責任を感じ、意気消沈する正一に声をかける。
「パパちゃん、ごめんね。もっと探してあげれば良かった、掛け金なんて簡単に外してあげたのに……」
今年で八歳になる一人息子の北村 正一は、父親を自分の遊びに巻き込み死に至らしめた悔恨の情に圧し潰される一年であったろう。
それとはまったく逆なのがお勢である。彼女はまるで憑物が落ちたかのように、
過分な夫の遺産に嬉々として好き勝手な人生を送ろうと想い鏡へ向かうのだ。
すぐ隣の押入れに仕舞ってあった。格太郎が閉じ込められて死んだあの忌まわしき長持を……
何故か強いてお勢は我がものとする。
それは彼女にとってこの長持の「オセイ」の三文字が、
この世界に有ってはならぬ。滅せなければならぬ物であるからなのだ。
――――たとえその一欠片さえ残してなるものか――――
いっそ格太郎の柩として燃やし去り、灰にしてこの世から葬ってしまえたら!
…… いや、熱りを冷まさなければ……
一年、いえ半年でいいかしら?
そんなことをあれこれ考えながら、すぐに一旦は別れを偽装した不義の恋人との再会を、
誰はばかることのない堂々と二人の楽しい一時を、晴々と送れる身分になった幸せを想い、
彼女は夢見る乙女となっていた。
あの時…… ガリガリと妙な物音にお勢が気付くのは、不倫の密会から帰って来た後のことである。
格太郎が子供達から隠れるために自分の部屋の押入れの奥に有る長持の中へと入り込み、
蓋の掛け金で不覚にも拘禁されてしまってから――――
どれくらいの間、夫は閉じ込められていたのであろうか……
中を無性に見てみたいと言う衝動に駆られたお勢は、
急いで長持に掛かる金具をはずしてみたのだけれど……
哀れな格太郎が弱々しくも蓋を持ち上げるのを、
妻は我が手でグッと押しつぶすと再び掛け金で密閉し、
夫を地獄の大釜へと突き落としたのがお勢の真実である。
格太郎としてみれば、不倫に溺れるお勢に、これまで数々の裏切りをされてきた……
だがこの最後の裏切りを、夫を葬った妻の、
蓋を押えつけるその力こそが紛れもない殺意を格太郎に教えてくれたのだ――――
呼吸もままならぬ長持の闇黒へと封じられ、その蓋の裏に現れた紅い靄。
格太郎が剥がれる爪でなおも無数に掻き毟り死にゆく男の描くおぼろげな、
だが紛れもない判読出来る「オセイ」の三文字。
これがもはや亡者と化す人間の、現世で最後の仕事である。
毒婦の名前をば刻み込み、この世へ遺さぬではおかぬぞ、
その名を「オセイ」の三文字を遺さぬでは!!
毎夜、毎夜の床へ入ると、お勢の耳にはあの時と同じようにガリガリと、
剥げた爪でなおも呪いの掻き傷を描く物凄い摩擦音が、
隣の納戸の貰い受けたあの長持から、
「お勢、お勢よ、俺だ、お勢よ、助けて呉れよ、今度は蓋を閉めるなよ。」
気味の悪い夫の声が、お勢の耳にはっきり聴こえて来る……
当然お勢は昼間のことだが、長持を開いてみたりした。
しかしそこにある物は、蓋に掻かれた「オセイ」の三文字だけ、
この死霊の遺した掻き文字が、お勢をあちらへ招いているのかも知れぬ……
誰にも相談出来ぬお勢の精一杯は、三文字をペンキで塗り潰すことだった、
血文字の解らなくなるよう朱色をなれぬ手つきで何度も何度も刷毛で撫で付け、
彼女の息が一心不乱に滲ませた汗が、一筋落ちてそれ毎覆ってしまって――――それでも相も変わらず、
「お勢来てくれ、来てくれお勢、俺の懇願が聞こえるか。」
格太郎の声が一層強く、妻であったお勢の頭に響き続ける。
夫の柩とした長持が、我が身の側にある限り、
犯した罪の重さに苛まれ続けるのがお勢の『業』であろう。
格太郎の愛憎が写し込まれたこの長持を、
早くも処分しようと決心したのは夫が亡くなって四十九日もまだ明けぬ深夜のことであった。
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