この女、愛人を作り兄を裏切り酷い悪女と思っていたが、中々どうして汐らしい所も有るじゃないか。
――――この二人の話しをフンフン項突いていた僧侶が座を立ち、お勢は御布施袋の水引を無意味に整えながら、
「お坊様をお見送りしてきます……」と、その後ろに廊下へ消えていく、
格二郎にチャンスが到来した。
「隣りの納戸だったな……」
彼は何問わない風を装い廊下へ出ると納戸の中を覗いてみる――――
――――待っていたのだこの時を!
あの兄が死の間際この姉を愛するが故掻き付けた「オセイ」の三文字を、もう一度見てみたい……
そして、どうしても長持が欲しいと言うお勢の心持ちを後で思い出すこともあったのである。
彼はこの兄が掻き印した「オセイ」の文字を、なぜか親族にも知人にも、誰にも告げることは無かった。
格二郎はこれを自分たち三人だけの秘密にしたのだ。詰まりこの弟は、兄夫婦に感動してしまったのであろう。
「…… あれだ! あの長持だ。」
薄暗い納戸の灯りを点け、そっと長持に近付きゆっくり蓋を開いていく格二郎――――
「――――はっ……
無い! 姉さんの名前が無い!?……」
長持の蓋に無い……「オセイ」の文字が無い、無い無い!!
あの三文字こそ――――
兄の格太郎が最後の力を振り絞り、妻のお勢を愛する証をこの世との別れへ残した物では無かったか!?
いや…… そればかりか、あの物凄かった掻き傷自体が全く消え失せている。
荒々しく目が着かん限り確認してみるのだが――――ショックのあまり固まってしまった格二郎は、
ただ呆然と蓋の裏の木目に指先を当て、それを何度も数えているようだ――――
――――あの、お勢と言う女は!……
兄が息子の隠れん坊に付き合い、中から開けられえぬ己が柩とした長持を強引に貰い受けたいと、
駄々まで捏ねたではないか!!
では、あれは嘘だったか? 女優の名演技だとでも言うのか……
そうか、これがあの姦婦のやり口か――――
これは兄があの蓋の掻き付けも、別の意味があるんじゃないか!?
――――とっ、格二郎の後ろにお勢が立っていた――――
お勢はとっさに低い箪笥の上に有った花瓶を自分でも信じられない力で格二郎の頭へ振り下ろす。
この有田焼の花瓶は彼女が格太郎に輿入れした際、父親が嫁入り道具として持たせてくれた物である、
その花瓶は今、格二郎の頭に鋭い一撃を加えると同時に真っ二つと床めがけて落ちて行く。
「うっ……」
格二郎は凶器が割れる音より小さく呻いて、
蓋の開いた長持の中へ両手で頭を押えたまま倒れ込むと、
真っ赤な霧吹きが長持の内部と彼の頭とを染めヒクヒクしている。
お勢はまるでボールが弾むように跳び上がり両の腕を伸ばすと長持の蓋を勢い良くガチャンと閉じ掛け金を掛けてしまってその上へドッカと座り込んだ!
これは反射的な行動である、お勢の防衛本能がそうさせたのかもしれない。
いや、防衛本能などでは無い。格太郎の時もそうだったではないか、
お勢は夫を憎み死に至らしめた訳ではなかった、一人息子の正一を設けたように幾ばくかの憐れみをも持ち
格太郎に接していたはずなのである。
なのになぜあの時、彼女は夫を狭い長持の中へ密封したのだろう?
そして今回もそうだ、彼女はなぜ殺人を犯そうとするのであろうか?
それは、抑圧されたお勢の心の奥底に息づく『魔性』が、彼女を芯から乗っ取って仕舞うからなのかも知れない。
お勢は大きな花瓶の破片を拾い上げると後は箒で掃いて片付けてしまった、
まるで何事も無かったように。
ピンポン♪
インターフォンが鳴った、誰だろうこの忙しい時に…… お勢は無視することにして花瓶の小さな粒を細い指で拾い上げ――――
ピンポン♪
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