秦氏千年の計43 縄文人にとっての「サナギ」
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秦《はた》氏は、約2千年前の第15代 応神《おうじん》天皇の御代、朝鮮半島より転場して来た日本の代表的な渡来系氏族で、天皇家に助力し朝廷設立にたずさわったとされ、『秦の始皇帝』の子孫とも、ユダヤ系とも、原始東方キリスト教を日本へ持ち込んだ景教《けいきょう》(ネストリウス派キリスト教)徒だったとも言われる。
第29代 欽明《きんめい》天皇の御代より朝廷にお仕えすると、第50代 桓武《かんむ》天皇の御代、秦氏が山城国《やましろのくに》へ都を誘致して平安京建設に尽力、京都千年の繁栄に貢献した。
中央アジアにあるテングリタグ(天山)山脈の二番目の高さを誇るハン・テングリ山は、東トルキスタン(ウイグル)、カザフスタン、キルギスのイスラム教三国国境になるが、その西のキルギス内陸にあるイシク・クル湖付近にかつて存在した『弓月《ゆづき》の国』が秦氏の国であったとされ、その付近から発見された2箇所の9〜14世紀の墓地からは、十字架の付いた墓石が6百以上も発掘されている。
十字架の意匠をかつての日本では「機物・磔《はたもの》」と呼んだ。
秦氏には、秦の始皇帝に使わされた徐福《じょふく》系と、秦弓月《はたの ゆづき》(弓月君)系の2系統が有るが、徳川時代に徐福系のみが『秦』を名乗る事とされる。
秦河勝《はたの かわかつ》、秦大津父《はたの おおつち》、秦公伊呂具《はたのきみ いろぐ》、秦忌寸都理《はたのいみき とり》が有名。
後に羽田《はた・はだ》、東儀《とうぎ》、惟宗《これむね》、宗《むね・そう》、長宗我部《ちょうそかべ》、島津《しまづ》などが出た。
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徐福じょふく 伊賀いがの歴史書『忍秘伝にんぴでん』に出てくる御色多由也おいろたゆやは徐福じょふく自身か、或いは彼と共に日本へ渡来した人物と云われる。 下野げやする西郷隆盛さいごう たかもりに付いて行く者も多かった …
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