これまでも「尊号一件」など、
徳川時代よりも以前の伝統と古例を遵守しようとする光格天皇と、
新儒学『朱子学』の理屈を正当とする徳川幕府の老中 松平定信との間で、学問論争へ発展する事も有りました。
「大政委任論」は、徳川幕府が国内外の政治支配の正当化のため主張した理論で、
「将軍は天皇より『大政(国の運営)』を委任され日本国を統治している。」とする物です。
これを建前にする徳川幕府は、日本の歴史上初めて朝廷を「禁中並公家諸法度」で規制し、強硬な姿勢をとって来ました。
それが今回の「大塩平八郎の乱」以後では、
大坂が京の都に近いことから、天保8年(西暦1837年)2月25日、京都所司代より朝廷へ事件の報告が行われ、
朝廷からの命令で、幕府の費用を使って徳川の定めた各神社による「豊作祈願」を行うこととなります。
朝廷の命令をそのまま受け入れるなど、それまでの徳川幕府では考えられない事でした。
これは、幕府の権威が下落し、傲慢だった徳川による朝廷支配の終焉の予兆と、見ることが出来るでしょう。
そして「人々のためにならない政権は倒して良い」と言う『陽明学』の考え方を実践して見せた大塩平八郎の志は、
吉田松陰そして西郷隆盛へ、脈々と受け継がれて行きました。
これまでは、度重なる飢饉から起こる「百姓一揆」だった物が、
隠し切れない幕閣と御用商人たちの腐敗などから、政治的な意味合いを持つ「世直し一揆」へと進化を遂げます。
幕末の日本は、大飢饉により農業が破綻した農村から街へ流入する無宿の者たちによる、凶悪な犯罪や、
黒船の来航、金の海外流出から来るインフレーション、虎狼狸(コレラ)の流行などの政情不安を、
強烈な封建制度の中で、庶民がストレス解消する方法として、もう一つの流れが有りました。
一目見ただけでは政治とは何ら関係の無い、
天照大御神が奉られる伊勢神宮への参拝「御蔭参り」と、「御札降り」そして、「ええじゃないか」です。
伊勢神宮への参拝は「誰もが死ぬまでに一度は行きたい」江戸時代最大のイベントにし、一大観光事業であり、
人間社会を上下関係で支配する封建制度の世にあって、奉公人が主人に、子供が親に、目上の者に無断で参詣しても許された「抜け参り」など、
日常から脱出できる、避難所的性質も持ち合わせる物で、
「世直し」とは言えない民衆たちは、
贅沢禁止の徳川時代に密かな反逆として晴れ着を身に着け「ええじゃないか」を囃子たて、街から街へ熱狂しながら踊り巡りました。
慶長8年(西暦1603年)より始まった徳川幕府の200年間に及ぶ支配体制は制度疲労を起こし、
天保8年(1837年)「大塩平八郎の乱」によってそれは顕在化します。
第15代将軍 徳川慶喜が「大政奉還」を行った、慶応4年・明治元年(西暦1868年)の江戸開城まで、後31年の事件でした。
なぜ「映画のジャイアンはカッコいい」のか1『四魂』と『まれびと』
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