住吉 波豆麻公之 馬乘衣 雜豆﨟 漢女乎座而 縫衣叙
住吉の 波豆麻の君が 馬乗衣 さひづらふ 漢女を据ゑて 縫へる衣ぞ
【訳】
住吉の波豆麻の、あの方の乗馬用の服は、渡来した服専門の女性に縫ってもらった衣服です。
『萬葉集 7巻 1273』柿本人麻呂
『日本書紀』応神天皇37年(西暦420年ごろ)に、縫工女を求人するため大和朝廷が、阿知使主と都加使主を呉国に派遣し、
呉王より「漢織・呉織」を紹介されました。
「さひづらふ」とは、鳥のさえずる言葉は理解出来ませんが、これを外国人の漢女が理解出来ない外国語で話しをしている様子に例え、
その渡来した漢織の女性から乗馬服を仕立ててもらった様子を描写したのが、先の『萬葉集 7巻 1273』柿本人麻呂 による歌なのです。
律令以前には錦部など、漢織・呉織と呼ばれ、
律令以後は朝廷の需要をまかなうために、大蔵省の所管となって織部司が置かれると、錦綾織や呉服部などが設置されました。
着物を「呉服」と言うのはこの名残です。
『日本書紀』雄略天皇14年(西暦720年)、「呉の国の使者と共に、呉の献れる手末の才伎、漢織、呉織、及び衣縫の兄媛、弟媛等を将て……」
このように専門の「才伎」才能技術を持った「兄媛」熟練者や、「弟媛」若い職人の渡来人たちが、萬葉の代の日本へ数多く来朝していました。
しかし「服部」と言うと、衣服意外の専門技能を持った人々のことを思い起こす方も居られるのでは無いでしょうか。
もう皆様お分りのことと存じます。そうです、伊賀の国は忍者の頭領 服部半蔵です。
徐福
御色多由也は、徐福が連れて来た者とも、徐福自身とも云われる。
服部家の秘伝書『忍秘伝』や、伊賀の歴史が書き記される『伊乱記』には、
司馬遷(しばせん)の書き上げたチャイナの歴史書『史記』にも著される、方士 徐福が、不老不死を求める秦の始皇帝に対し、
「東方絶海に在る三神山、蓬萊・瀛州・方丈に居る仙人より不老不死の霊薬“仙丹”をもらって参ります。」
と持ち掛けること、紀元前221年。
船団を組み、3千人の清らかな少年少女、百の技術者と共に九州は有明湾へと巡り来て、
どこより上陸すれば良いか盃を海に浮かべ、流れ行く先へついて行き筑後川の河口に辿り着きました。
佐賀県佐賀市の浮盃の地名は、この故事が由来となります。
「上代より伊賀の遺風とて、いにしえの御色多由也より謀術を伝う」と『伊乱記』に有るように、
方士 徐福が日本へ「謀術」権謀術数を用いて、個人や組織をコントロールする術を伝えたとされ、これが忍者のルーツとなりました。
また、徐福は日本の「秦氏」の祖先の一つなのですが、
徳川幕府により、この徐福系のみに「秦」姓の名乗りを制限され、現在もその影響は残っています。
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