秦氏千年の計32 服部半蔵のルーツ

 住吉すみのえの 波豆麻公之はづまのきみが 馬乘衣うまのりごろも 雜豆﨟さいづらう 漢女乎座而あやめをすえて 縫衣叙ぬえるころもぞ

 住吉すみのえ波豆麻はづまきみ馬乗衣うまのりごろも さひづらふ 漢女あやめへるころも

【訳】
 住吉すみのえ波豆麻はづまの、あの方の乗馬用じょうばようの服は、渡来とらいした服専門の女性にってもらった衣服です。

 萬葉集まんようしゅう 7巻 1273』柿本人麻呂かきのもとの ひとまろ
 

 『日本書紀にほんしょき応神おうじん天皇37年(西暦420年ごろ)に、縫工女きぬぬいめを求人するため大和やまと朝廷が、阿知使主あちのおみ都加使主つかのおみ国に派遣し、

 呉王ごおうより「漢織あやはとり呉織くれはとり」を紹介されました。
 

 「さひづらふ」とは、鳥のさえずる言葉は理解出来ませんが、これを外国人の漢女あやめが理解出来ない外国語で話しをしている様子に例え、

その渡来とらいした漢織あやはとりの女性から乗馬服じょうばふくを仕立ててもらった様子を描写したのが、先の萬葉集まんようしゅう 7巻 1273』柿本人麻呂かきのもとの ひとまろ による歌なのです。
 

 律令りつりょう以前には錦部にしごりなど、漢織あやはとり呉織くれはとりと呼ばれ、

 律令りつりょう以後は朝廷の需要をまかなうために、大蔵省の所管となって織部司おりべのつかさが置かれると、錦綾織にしあやおり呉服部くれはとりなどが設置されました。

 着物を「呉服ごふく」と言うのはこの名残です。
 

 『日本書紀にほんしょき雄略ゆうりゃく天皇14年(西暦720年)、「の国の使者と共に、たてまつれる手末たなすゑ才伎てひと漢織あやはとり呉織くれはとり、及び衣縫きぬぬひ兄媛えひめ弟媛おとひめ等をて……」

 このように専門の「才伎てひと」才能技術を持った「兄媛えひめ」熟練者や、「弟媛おとひめ」若い職人の渡来人とらいじんたちが、萬葉まんようの日本へ数多く来朝らいちょうしていました。
 

 しかし服部はっとりと言うと、衣服意外の専門技能を持った人々のことを思い起こす方も居られるのでは無いでしょうか。
 
 もう皆様お分りのことと存じます。そうです、伊賀いがの国は忍者頭領とうりょう 服部はっとり半蔵はんぞうです。
 

徐福じょふく


御色多由也おいろたゆやは、徐福じょふくが連れて来た者とも、徐福じょふく自身とも云われる。

 
 服部はっとり家の秘伝書『忍秘伝にんぴでん』や、伊賀の歴史が書きしるされる『伊乱記いらんき』には、

 司馬遷(しばせん)の書き上げたチャイナの歴史書『史記しき』にもあらわされる、方士ほうし 徐福じょふくが、不老不死ふろうふしを求めるしん始皇帝しこうていに対し、

 「東方絶海とうほうぜっかいに在る三神山さんしんざん蓬萊ほうらい瀛州えいしゅう方丈ほうじょうに居る仙人より不老不死ふろうふし霊薬れいやく仙丹せんたんをもらってまいります。」

 と持ち掛けること、紀元前きげんぜん221年。
 

 船団を組み、3千人の清らかな少年少女、百の技術者と共に九州は有明湾へとめぐり来て、

どこより上陸すれば良いかさかずきを海に浮かべ、流れ行く先へついて行き筑後川ちくごがわの河口に辿たどり着きました。

 佐賀県佐賀市の浮盃ぶはいの地名は、この故事こじが由来となります。
 

 「上代じょうだいより伊賀いが遺風いふうとて、いにしえの御色多由也おいろたゆやより謀術ぼうじゅつつたう」と『伊乱記いらんき』に有るように、

 方士ほうし 徐福じょふくが日本へ「謀術ぼうじゅつ権謀術数けんぼうじゅっすうもちいて、個人や組織をコントロールする術をつたえたとされ、これが忍者のルーツとなりました。
 

 また、徐福じょふくは日本の秦氏はた しの祖先の一つなのですが、

徳川幕府により、この徐福じょふく系のみにはたせいの名乗りを制限され、現在もその影響は残っています。
 

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