秦氏千年の計46 朝廷の中で生き延びた蘇我一族

 中大兄皇子なかのおおえのみこ後の天智てんぢ天皇中臣鎌足なかとみの かまたり国政改革こくせいかいかく大化たいか改新かいしんを行い、

 遣唐使けんとうしが持ち帰る情報を元に、儒学じゅがく思想を積極的に取り入れ、とう王朝の官僚制かんりょうせいを導入して、

 形骸化けいがいかする任那かや調ちょうを廃止し、朝鮮三国ちょうせん さんごくの「百済くだら新羅しらぎ高句麗こうくり」との緊張関係を和らげ、
 

 大化たいか3年(647年)には磐舟柵いわふねのき渟足柵ぬたりのきを、現在の 新潟県村上市岩船にいがたけん むらかみし いわふね および 新潟市東区にいがたし ひがしく 付近にきずいて、東北地方よりの蝦夷えみしの侵入にそなえました。

 この蝦夷えみしたちが、東北へ退いた物部もののべの一族ひきいる者たちであったのかどうかは、分かりません。
 

 そして、中大兄皇子なかのおおえのみこが実質的な権力を握り、孝徳こうとく天皇を現在の大阪市中央区の難波宮なにわのみやに残したまま、皇族や臣下を引き連れ、

皇子みこは奈良の倭京わきょうへ戻ってしまい、孝徳こうとく天皇は失意の内に崩御ほうぎょあそばし、その皇子みこにあらせられる有間皇子ありまのみこ謀反むほんの罪を着せられ、処刑しょけいされてしまいます。
 

 また、大化たいか改新かいしんは、日本風に変更へんこうしているとは言え、従来じゅうらい氏族制度しぞくせいどを改変しようとするなど、

皇后こうごう権威けんいや、母系制ぼけいせいに対する軽視が反発をまねいた結果壬申の乱じんしん  らんへと至る道筋を着けてしまいました。
 

天智てんぢ天皇


蘇我入鹿そがの いるかは、天智てんぢ天皇御意向ごいこう謀殺ぼうさつされる。

 
 天智てんぢ8年(669年)10月16日、天智てんぢ天皇の側近で有った中臣鎌足なかとみの かまたりが亡くなります。

 天智てんぢ天皇大海人皇子おおあまのみこ後の天武てんむ天皇を、亡き鎌足かまたりの家へ派遣し、

大織冠だいしきの かうぶり内大臣ないだいじんさずけさせ、さらにはうじを与えて、藤原氏ふじわら うじとし、これより藤原鎌足ふじわらの かまたりとなり、通称「藤原内大臣ふじわらの ないだいじん」と呼ばれるようになりました。
 

 まだこの頃は、天智てんぢ天皇天武てんむ天皇の兄弟関係は良好だったのでしょう。
 

 しかしこの2年後、兄の天智てんぢ天皇やまい得て臥え ふせがちになられますと、

天智てんぢ10年(671年)10月17日には、我が息子の大友皇子おおとものみこ弘文こうぶん天皇太政だじょう大臣へ任じたのを始めとして、

 蘇我馬子そがの うまこの孫であった蘇我赤兄そがの あかえ左大臣さだいじんにんじるのを筆頭に、

中臣金なかとみの かね右大臣うだいじん、やはり馬子うまこの孫である蘇我果安そがの はたやすと、巨勢人こせの ひと紀大人きの うしの3名を御史大夫ぎょしたいふへと任命します。
 

 これを見る限り、確かに蘇我氏そが うじの本流は天智てんぢ天皇により滅ぼされたのでしょう。

 しかし、大化たいか改新かいしん以降の蘇我氏そが うじが、天智てんぢ天皇から冷遇れいぐうを受けているようには見えません。

 そればかりか、かえって天智てんぢ天皇蘇我氏そが うじを重要視しているようにさえ見えます。

 もちろん、蘇我氏そが うじとしては、もう天智てんぢ天皇に、ただただ恭順きょうじゅんするしか生き延びるすべは無いと、割り切ってしまっているのでしょうが……
 

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