中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足は国政改革「大化の改新」を行い、
遣唐使が持ち帰る情報を元に、儒学思想を積極的に取り入れ、唐王朝の官僚制を導入して、
形骸化する任那の調を廃止し、朝鮮三国の「百済・新羅・高句麗」との緊張関係を和らげ、
大化3年(647年)には磐舟柵・渟足柵を、現在の 新潟県村上市岩船 および 新潟市東区 付近に築いて、東北地方よりの蝦夷の侵入に備えました。
この蝦夷たちが、東北へ退いた物部一族の率いる者たちであったのかどうかは、分かりません。
そして、中大兄皇子が実質的な権力を握り、孝徳天皇を現在の大阪市中央区の難波宮に残したまま、皇族や臣下を引き連れ、
皇子は奈良の倭京へ戻ってしまい、孝徳天皇は失意の内に崩御あそばし、その皇子にあらせられる有間皇子も謀反の罪を着せられ、処刑されてしまいます。
また、「大化の改新」は、日本風に変更しているとは言え、従来の氏族制度を改変しようとするなど、
皇后の権威や、母系制に対する軽視が反発を招いた結果「壬申の乱」へと至る道筋を着けてしまいました。
天智8年(669年)10月16日、天智天皇の側近で有った中臣鎌足が亡くなります。
天智天皇は大海人皇子(後の天武天皇)を、亡き鎌足の家へ派遣し、
大織冠と内大臣を授けさせ、さらには姓を与えて、藤原氏とし、これより藤原鎌足となり、通称「藤原内大臣」と呼ばれるようになりました。
まだこの頃は、天智天皇と天武天皇の兄弟関係は良好だったのでしょう。
しかしこの2年後、兄の天智天皇は病を得て臥せがちになられますと、
天智10年(671年)10月17日には、我が息子の大友皇子(弘文天皇)を太政大臣へ任じたのを始めとして、
蘇我馬子の孫であった蘇我赤兄を左大臣に任じるのを筆頭に、
中臣金は右大臣、やはり馬子の孫である蘇我果安と、巨勢人・紀大人の3名を御史大夫へと任命します。
これを見る限り、確かに蘇我氏の本流は天智天皇により滅ぼされたのでしょう。
しかし、「大化の改新」以降の蘇我氏が、天智天皇から冷遇を受けているようには見えません。
そればかりか、かえって天智天皇は蘇我氏を重要視しているようにさえ見えます。
もちろん、蘇我氏としては、もう天智天皇に、ただただ恭順するしか生き延びるすべは無いと、割り切ってしまっているのでしょうが……
秦氏千年の計47 天智天皇の最期と弘文天皇の誕生
秦氏千年の計45 山背大兄王の非業と中大兄皇子の野望
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