蘇我安麻呂は、蘇我馬子の曾孫に当たる人物で、大海人皇子(後の天武天皇)を病床の天智天皇の元へ呼ぶ、使者の役を仰せつかりました。
安麻呂は大海人皇子と親しくしており、天智天皇側は、
「彼に呼びに行かせれば、大海人皇子も心を許し、うっかり油断して馬脚を現すだろう」との思惑も有ったのでしょうが、蘇我安麻呂は、
「よくよく注意なさって、お話しすることをお薦めします」
と、大海人皇子に耳打ちします。
この友人よりの忠言に、大海人皇子は天智天皇からの「天皇を譲る」との申し出を辞退、あっさり出家するとそのまま吉野へ脱出することが出来ました。
弘文天皇(大友皇子)
弘文天皇が天皇へ御即位あそばされたか否かは、歴史家らにとって議論が有る。
同年11月23日、天智天皇は内裏の西殿の織物仏の前へ、香炉を手にする大友皇子と、先の5名を集むれば、
「天智天皇が詔を奉ずる。必ず大友皇子を始めとするこの6名は、心を同じゅうして天智天皇の詔を護り、もし違える事あらば必ず天罰を受くる!」
さらには、
「臣下5名は未来永劫、大友皇子に付き従い、これを裏切るなら、持国天・増長天・広目天・多聞天に打たれ、天津神・国津神にも誅罰せらる。
大友皇子が必ずや天皇へ御即位あそばされまするよう、ここに居る皆が一丸と成らん事を、善法堂天ら三十三天よ、この証を知れ!
約定を破る者あらば子孫は絶え一族郎党、必ずや滅びんことを……」
などと、皆が泣きながら誓わされるので有りました。
来たる同年同月29日にも、また5名の臣下は大友皇子を奉ずると、同じ内容で天智天皇を御前に盟約しています。
そして同年、天智10年(671年)12月3日、「大化の改新」など、大改革を行ってきた天智天皇は遂に、46歳で御即位あそばされました。
大友皇子が天皇へ即位あそばされたのか否かは、歴史家たちの論争になっております。
天皇の行う国事行為を行っており、異論を挟む者は少数しか居ません。
天智天皇の崩御にともない、朝廷を継いだ大友皇子は、翌年の壬申の年(672年)、24歳で天皇へ御即位あそばされたとして、
明治3年(1870年)、明治天皇より貴人へ対し死後に贈られる諡号、第39代 弘文天皇を寄贈され、歴代天皇に列せられました。
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