秦氏千年の計39 穴穂部皇子の最期

 しかし感情が爆発する寸前なのは、そこに居る天皇すめらみこと臣下しんかたちの方で、務めを果たした三輪 逆みわの さかうとその二人の子を、咎人とがびととして処刑した守屋もりやへ、

今にも斬りかからんとするのを悟り、物部守屋もののべの もりやみずからの本拠地ほんきょちである河内国かわちのくにあっさり退いてしまいます。
 

 中臣勝海なかとみの かつみは、蘇我馬子そがの うまこ側の敏達びだつ天皇皇子おうじにあらせられるお二人押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこ竹田皇子たけだのみこのろい殺さんと像を作って呪詛じゅそしていましたが、

廃仏派はいぶつは」が皆を怒らせ不利ふりとなっているを知り、蘇我馬子そがの うまことの離反りはんを狙って押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこわす水派宮みなまたのみやへ行き配下に入りました。ところが、

 聖徳太子しょうとくたいし舎人とねりで渡来人とも云われる迹見赤檮とみの いちいは、蘇我馬子そがの うまこめいを受け、水派宮みなまたのみやより中臣勝海なかとみの かつみが帰宅のため出てくるを待ち伏せてこれを斬り捨てます。
 

金銅製冠こんどうせい かんむり


帯の長さ約52㎝、立飾りを含めた高さ約35㎝
 先端部に鳥形とりがた剣菱形意匠けんびしがたいしょう舟形意匠ふながたいしょう透彫すかしぼりで現し、全体には花弁形かべんがた鳥形とりがた歩揺ほようかざられるかんむりです。

 
 同年同月である用明ようめい2年(587年)4月9日、用明ようめい天皇御崩御ごほうぎょあそばされ、後継未だ定こうけいいま  さだまらず空位くういであるのを同年5月には、

物部守屋もののべの もりや穴穂部皇子あなほべのみこを天皇に立つるべく、り遊びに出させらるべく密使みっしをば送りて周りをあざむき、淡路あわじに行かんと所望しょもうすを、

蘇我馬子そがの うまこが先手を打って同年6月7日、先々代の敏達びだつ天皇太皇太后たいこうたいごうにあらせられる豊御食炊屋姫尊とよみけかしきやひめ(後の推古すいこ天皇)の勅命ちょくめいほうずると、
 

金銅製履こんどうせい くつ


全長38.4㎝、最大幅12.4㎝、最大高11.6㎝
 銅板どうばんの表面に、針状の道具で突いて着けた線刻せんこく列点文れってんもんで、六角形の亀甲繋ぎ文きっこうつな  もんを型取り、全体にはねじった針金の先の円形えんけい魚形さかながた歩揺ほようにより装飾そうしょくされている。
 底の方にも歩揺ほようが付けられており、実用品ではなく死者への副葬品ふくそうひん。又は、椅子に座った状態でいたと考えられる。

 
 その日の夜半には軍事をて朝廷につかえし的 真噛いくはの まくいらが穴穂部皇子あなほべのみこの宮を囲みて、

まず衛士えいし楼上ろうじょうへ登り矢を射掛いかければ穴穂部皇子あなほべのみこの肩へと当たり、楼下ろうかへ落ちて隣家りんかへ逃走するのを、衛士えいしあかりをかかげて探し出し、

 遂には御命頂戴仕おいのちちょうだい つかまつる。

 なお、翌8日には穴穂部皇子あなほべのみこと仲良き宅部皇子やかべのみこ御殺おあやたてまつそうろう

お二人の御遺骸ごいがいは、斑鳩いかるがはミササギ山の藤ノ木古墳ふじのき こふん合葬がっそうさるるとも云われます。
 

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秦氏千年の計40 占いで知られる「算命学さんめいがく」は飛鳥あすか時代に伝来でんらいしていた

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秦氏千年の計38 寵臣ちゅうしん三輪 逆みわの さかう

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