しかし感情が爆発する寸前なのは、そこに居る天皇の臣下たちの方で、務めを果たした三輪 逆とその二人の子を、咎人として処刑した守屋へ、
今にも斬りかからんとするのを悟り、物部守屋は自らの本拠地である河内国へあっさり退いてしまいます。
中臣勝海は、蘇我馬子側の敏達天皇の皇子にあらせられるお二人押坂彦人大兄皇子と竹田皇子を咒い殺さんと像を作って呪詛していましたが、
「廃仏派」が皆を怒らせ不利となっているを知り、蘇我馬子との離反を狙って押坂彦人大兄皇子の居わす水派宮へ行き配下に入りました。ところが、
聖徳太子の舎人で渡来人とも云われる迹見赤檮は、蘇我馬子の命を受け、水派宮より中臣勝海が帰宅のため出てくるを待ち伏せてこれを斬り捨てます。
金銅製冠
帯の長さ約52㎝、立飾りを含めた高さ約35㎝
先端部に鳥形や剣菱形意匠、舟形意匠を透彫りで現し、全体には花弁形と鳥形の歩揺で飾られる冠です。
同年同月である用明2年(587年)4月9日、用明天皇が御崩御あそばされ、後継未だ定まらず空位であるのを同年5月には、
物部守屋が穴穂部皇子を天皇に立つるべく、猟り遊びに出させらるべく密使をば送りて周りを欺き、淡路に行かんと所望すを、
蘇我馬子が先手を打って同年6月7日、先々代の敏達天皇の太皇太后にあらせられる豊御食炊屋姫尊(後の推古天皇)の勅命を奉ずると、
その日の夜半には軍事を以て朝廷に仕えし的 真噛らが穴穂部皇子の宮を囲みて、
まず衛士が楼上へ登り矢を射掛ければ穴穂部皇子の肩へと当たり、楼下へ落ちて隣家へ逃走するのを、衛士は灯りをかかげて探し出し、
遂には御命頂戴仕る。
なお、翌8日には穴穂部皇子と仲良き宅部皇子も御殺め奉り候、
お二人の御遺骸は、斑鳩はミササギ山の藤ノ木古墳へ合葬さるるとも云われます。
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