秦氏千年の計21 大塩平八郎の乱

 「もはやこれまで」

 大塩平八郎おおしお へいはちろうは朝廷への忠信ちゅうしんと、幕府に対する武装蜂起ぶそうほうきを呼びかける檄文げきぶんを塾の門弟もんてい近郷きんごうの農民に、金一朱きんいっしゅと引き替えられる施行引替札せぎょう ひきかえふだと共に配布はいふし、

また、大坂町奉行所おおざか まちぶぎょうしょ不正ふせいや役人の汚職おしょくなどを告発こくはつする手紙を、江戸の幕閣ばっかくへ向けて送りました。
 

 施行引替札せぎょう ひきかえふだは、お金の引替券ひきかえけんで、

 「安堂寺町・御堂筋南あんどうじまち  みどうすじ みなみ入東はいって ひがし安堂寺町あんどうじまち5丁目の本屋仲間会所ほんやなかま かいしょへ持参すると、

 金一朱きんいっしゅ、現在の金額で約5千円弱と替えられると言う物です。
 

 ここ迄くれば流石の、大坂東町奉行所おおざか ひがしまちぶぎょうしょも気が付きました。

 しかし跡部良弼あとべ よしすけは、武装蜂起ぶそうほうき参加者の中に、奉行所ぶぎょうしょの役人が数人居る事実に驚きます。

 奉行所ぶぎょうしょへ計画が漏れた事を知って大塩平八郎おおしお へいはちろうは、天保てんぽう8年(西暦1837年)旧暦2月19日(3月25日)、

天満橋てんまばし(大阪市北区)に在る自らの屋敷へ火を放ち、ここに大塩平八郎の乱おおしお へいはちろう  らん勃発ぼっぱつしました。
 

大坂炎上おおざか えんじょう
もんの大砲を引く「大塩一党おおしお いっとう
 

作者不明

 
 救民きゅうみんの旗をかかげる近郷きんごうの農民と被差別民ひさべつみん、そして大坂町民おおざか ちょうみんで300人にまで膨れ上がった大塩一党おおしお いっとうは、船場せんば鴻池屋こうのいけや三井呉服店みついごふくてんなど豪商ごうしょうを襲い、

うすを使った大砲や火矢を放ちますが、奉行所ぶぎょうしょ側にわずか半日で鎮圧ちんあつされます。
 

 当時の大坂おおざかの人口の約5分の1に当たる7万人が焼け出される火災にまで類焼し、これを「大塩焼おおしおやけ」と言いました。
 

 大塩平八郎おおしお へいはちろうは火薬を抱いて爆死したとされています、ですがそれは黒焦くろこげの肉片をき集め塩漬けにした物でした。

 当時の技術で誰が、大塩平八郎おおしお へいはちろうだと判別できるでしょう。

 源義経みなもとの よしつねは逃げ延びてチンギス・ハーンに……
 西郷隆盛さいごう たかもりはロシアで軍隊を訓練し、ニコライ2世と共に帰国する……

 御多分ごたぶんに漏れず、大塩平八郎おおしお へいはちろうも生きていて、黒船モリソン号で江戸を攻撃すると、噂が流れます。
 

 生田万の乱いくたよろず  らんは、天保てんぽう8年(西暦1837年)6月、国学者・民俗学者の平田篤胤ひらた あつたねが開いた塾「気吹舎いぶきのや」で塾頭を務め、

敬神尊王けいしんそんのうの志を持った生田万いくた よろずが、大塩平八郎おおしお へいはちろう檄文げきぶん感化かんかされ、「大塩門弟おおしお もんてい」と称し、越後国柏崎えちごのくに かしわざき蜂起ほうきします。
 

 同じく天保てんぽう8年(1837年)に起こった能勢騒動のせ そうどうなど、これ以降の一揆は「世直よなおし」を名乗るようになって行きました。
 

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