「もはやこれまで」
大塩平八郎は朝廷への忠信と、幕府に対する武装蜂起を呼びかける『檄文』を塾の門弟や近郷の農民に、金一朱と引き替えられる施行引替札と共に配布し、
また、大坂町奉行所の不正や役人の汚職などを告発する手紙を、江戸の幕閣へ向けて送りました。
施行引替札は、お金の引替券で、
「安堂寺町・御堂筋南へ入東」安堂寺町5丁目の本屋仲間会所へ持参すると、
金一朱、現在の金額で約5千円弱と替えられると言う物です。
ここ迄くれば流石の、大坂東町奉行所も気が付きました。
しかし跡部良弼は、武装蜂起参加者の中に、奉行所の役人が数人居る事実に驚きます。
奉行所へ計画が漏れた事を知って大塩平八郎は、天保8年(西暦1837年)旧暦2月19日(3月25日)、
天満橋(大阪市北区)に在る自らの屋敷へ火を放ち、ここに「大塩平八郎の乱」が勃発しました。
「救民」の旗を掲げる近郷の農民と被差別民、そして大坂町民で300人にまで膨れ上がった大塩一党は、船場の鴻池屋や三井呉服店など豪商を襲い、
臼を使った大砲や火矢を放ちますが、奉行所側にわずか半日で鎮圧されます。
当時の大坂の人口の約5分の1に当たる7万人が焼け出される火災にまで類焼し、これを「大塩焼け」と言いました。
大塩平八郎は火薬を抱いて爆死したとされています、ですがそれは黒焦げの肉片を掻き集め塩漬けにした物でした。
当時の技術で誰が、大塩平八郎だと判別できるでしょう。
源義経は逃げ延びてチンギス・ハーンに……
西郷隆盛はロシアで軍隊を訓練し、ニコライ2世と共に帰国する……
御多分に漏れず、大塩平八郎も生きていて、黒船モリソン号で江戸を攻撃すると、噂が流れます。
生田万の乱は、天保8年(西暦1837年)6月、国学者・民俗学者の平田篤胤が開いた塾「気吹舎」で塾頭を務め、
敬神尊王の志を持った生田万が、大塩平八郎の『檄文』に感化され、「大塩門弟」と称し、越後国柏崎で蜂起します。
同じく天保8年(1837年)に起こった能勢騒動など、これ以降の一揆は「世直し」を名乗るようになって行きました。
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