敏達14年(585年)3月、「廃仏派」の物部守屋は、
「疫病は仏教信仰のせい」として、大連の権限を乱用し、
蘇我馬子が造営した仏舎と仏像を自らの手で焼き払い、焼け残った仏像を集めると「難波の堀江」へ棄てさせます。
(現在は引き上げられ、信濃善光寺の秘仏本尊となっている)
さらには、佐伯造御室に命令し、「崇仏派」の蘇我馬子が崇敬し、日本初の尼僧である善信尼(当時11歳)ら3人の法衣を奪い裸にして、
欽明天皇13年(西暦552年)、百済の第26代 聖明王が日本へ初めて、釈迦仏の金銅像や仏経典を献上したとされる場所、「海石榴市」まで連行し、
公開で、鞭打ちの刑に処す事件を起こしました。
(善信尼はその後、崇峻元年(588年)仏法を学ぶべく百済へ渡り3年後に帰国、仏教に貢献する)
百済観音(木造観音菩薩像)
7世紀の彫刻。法隆寺の宝の1つ。
すると、敏達天皇の様態は急変し、敏達14年(西暦585年)8月15日、遂には御崩御あそばされてしまいます。
敏達天皇の寵臣であった三輪 逆は殯宮で天皇の葬儀が行われている中、
「朝廷を荒らさぬよう。鏡のように浄めて平らかに治まるよう臣は仕えます」と誄を読むと、
隼人の民を集め殯庭を警護させました。
次の皇位に野望を抱く穴穂部皇子は、その厳かな様子に、
「何故に死せる皇に仕え、生ける皇である自分にお前たちは仕えないのか!」と憤激し、
その上、一月後には大臣の蘇我馬子が推薦する「崇仏派」寄りの用明天皇(在位585年ー587年)が即位したため、
穴穂部皇子は利害の一致だけで、「廃仏派」の物部守屋と結ぶことになります。
用明天皇元年(586年)5月、敏達天皇の皇后陛下で、後の推古天皇にあらせられる豊御食炊屋姫尊は、敏達天皇の殯の義式を行って居られました。
殯とは、御遺体が分解し白骨化するまで御家族が見守る日本の古来より行われている葬送儀礼で、昭和天皇の葬送でも行われており、
火の神を産んだ時の火傷が元で黄泉の国へ逝かれし妻のカムイザナミの分解せし御遺体と、
夫のカムイザナギが御対面されるシーンでご存知のお方も居られることでしょう。
そこへやって来たのが、あの穴穂部皇子、
「自分の女になれ!」と乱暴目的で、殯宮に押し入らんとします。
仁徳天皇11年、洪水や高潮を防ぐため難波宮の北の野に水路を掘削させた難波の堀江
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