崇仏論争・関連資料

 聖徳太子しょうとくたいし百済観音くだら かんのん聖徳宗総本山 法隆寺

 法隆寺ほうりゅうじは、聖徳太子しょうとくたいしの御父君にあらせられる用明ようめい天皇発願ほつがんによって、建立こんりゅうされました。

ですので法隆寺ほうりゅうじ聖徳太子しょうとくたいしが亡き御父君のためにお建てになった物なのです。

 「日本書紀にほんしょき」には天智てんち天皇9年(西暦670年)に落雷によって全焼したと書いてあります。これに対して、

 「日本書紀にほんしょきの内容は信用でき無い」

とする意見も有り、論争となっていましたが、昭和14年(1939年)の発掘調査で、一度焼失した後に再建された事が現在は証明されています。

 玉虫厨子たまむしのずし・関連資料
 

 物部もののべ氏は、神武じんむ天皇よりも前に大和の国入りをしたニギハヤヒ(アメノホヒ)を先祖とする天神系氏族てんしんけい うじぞくです。

 神武じんむ天皇政権から大王てんのうに仕える氏族で、鉄器や兵器の製造・管理を主に行い、同じ天神系氏族てんしんけい うじぞくである大伴おおとも氏と並ぶ有力軍事氏族となって行き、

雄略ゆうりゃく天皇の頃に成ると大連おおむらじに任じられる者が出て、各地で国造くにのみやつこなどの役職で活躍した物部もののべ氏は、

解部ときべを配下とし「刑罰・警察・軍事・呪術」などの役職を担当しました。
 

 奈良県生駒郡斑鳩町いこまぐん いかるがちょう 藤ノ木古墳ふじのき こふんの出土品

 穴穂部皇子あなほべのみこ御陵みささぎには、お二人の御遺骸ごいがい合葬がっそうされ、もうお一人は女性ではないかともされますが、

穴穂部皇子あなほべのみこと仲の良かった宅部皇子やかべのみこではないかとも云われています。
 


 
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