中大兄皇子は天皇に御即位あそばされぬまま御政務を続けられ、百済復興戦争を継続あそばすと、
天智2年(663年)、現在の朝鮮半島の錦江河口付近「白村江」で、日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅の連合軍との「白村江の戦い」が勃発しました。
日本は4度戦い、船400隻を焼き払われ、これに大敗。唐軍によって捕らえられた日本兵は、捕虜として長安へ送られてしまいます。
百済はこれで、完全に唐・新羅の支配を受ける事になりました。
「千里長城」は、隋王朝・唐王朝の進行を防ぐため高句麗が遼東半島に築く
印は長城の開始場所「卑沙城 」現在の『大黒山』に在る
一方、高句麗は、660年に百済が滅びると、翌年には百済側からも唐に包囲され、新羅にも攻められましたが耐え切ります。
666年(『日本書紀』では664年)に宰相で将軍の淵蓋蘇文(『日本書紀』では伊梨柯須彌・蓋金)が死亡すると、
その兄弟の間で争いが起こり、兄が唐王朝へ救援を求め西の拠点を失い、
再び平壌が包囲を受け1ヶ月後、宝蔵王は降伏し高句麗は滅亡しました。
もし、高句麗が陸路で援軍を出して新羅を攻めていれば、
百済は、新羅軍と唐軍に「挟み撃ち」にされず、持ちこたえられたのでは無いでしょうか?
また、百済が滅ぶ前に、日本の援軍を得る事が出来ていれば戦況は変わっていたのかも知れません。
百済が落とされれば、唐軍は百済の在った南側から高句麗を包囲するのは分かっていましたし、
高句麗の淵蓋蘇文の優秀さを考えると、なぜ高句麗が参戦しなかったのかは、当時の情報伝達の不備など疑問の残る処です。
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