秦氏千年の計12 攻められる高句麗

 中大兄皇子なかのおおえのおうじは天皇に御即位ごそくいあそばされぬまま御政務ごせいむを続けられ、百済復興くだら ふっこう戦争を継続あそばすと、

天智てんち2年(663年)、現在の朝鮮半島の錦江くむがん河口付近「白村江はくすきのえ・はくそんこう」で、日本・百済くだら遺民いみんの連合軍と、唐・新羅とう  しらぎの連合軍との白村江の戦いはくすきのえ・はくそんこう たたか   勃発ぼっぱつしました。
 

 日本は4たび戦い、船400せきを焼き払われ、これに大敗たいはいとう軍によって捕らえられた日本兵は、捕虜ほりょとして長安ちょうあんへ送られてしまいます。

 百済くだらはこれで、完全にとう新羅しらぎの支配を受ける事になりました。

 

千里長城せんりちょうじょうは、ずい王朝・とう王朝の進行を防ぐため高句麗こうくり遼東りょうとう半島にきず
印は長城ちょうじょうの開始場所卑沙城びさそん・ひさじょう現在の大黒山だいこくざんに在る

 一方、高句麗こうくりは、660年に百済くだらが滅びると、翌年には百済くだら側からもとうに包囲され、新羅しらぎにも攻められましたが耐え切ります。

 666年(『日本書紀』では664年)に宰相さいしょうで将軍の淵蓋蘇文えん がいそぶん(『日本書紀』では伊梨柯須彌いりかすみ蓋金がいきんが死亡すると、

その兄弟の間で争いが起こり、兄がとう王朝へ救援を求め西の拠点を失い、

 再び平壌へいじょうが包囲を受け1ヶ月後、宝蔵王ほうぞうおうは降伏し高句麗こうくりは滅亡しました。

 

 もし、高句麗こうくりが陸路で援軍えんぐんを出して新羅しらぎを攻めていれば、

百済くだらは、新羅しらぎ軍ととう軍に「挟み撃はさ う ち」にされず、持ちこたえられたのでは無いでしょうか?

 また、百済くだらが滅ぶ前に、日本の援軍を得る事が出来ていれば戦況せんきょうは変わっていたのかも知れません。
 

 百済くだらが落とされれば、とう軍は百済くだらの在った南側から高句麗こうくりを包囲するのは分かっていましたし、

 高句麗こうくり淵蓋蘇文えん がいそぶんの優秀さを考えると、なぜ高句麗こうくり参戦さんせんしなかったのかは、当時の情報伝達の不備など疑問の残るところです。
 

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