秦氏千年の計13 情報収集と遣唐使

 このように、いくさも強く永きに渡りチャイナを苦しめてきた歴史有る高句麗こうくりが滅んだことで、東アジアの均衡きんこうは崩れます。

 もはや朝鮮半島に日本の味方は無いかのように見えました、ただし白村江の戦いはくそんこう  たたか  じかに日本と交戦することの無かった新羅しらぎは、

使者を日本へ送り続け、とう王朝へ完全に飲み込まれまいと、バランスをはかっていたのです。
 

 一方、日本は情報収集のために続けて来た遣唐使けんとうしの学僧たちを捕虜ほりょにされるなど、情報の無い状態で戦後交渉のための遣唐使けんとうし三度みたびに渡り送ります。

 天智てんち4年(665年)、天智てんち6年(667年)帰国。
 天智てんち6年(667年)、天智てんち7年(668年)帰国。
 天智てんち8年(669年)、帰国不明。
 

 大宝たいほう2年(702年)になるまで、実に33年の間、遣唐使けんとうしが再開される事は有りませんでした。

 日本は海外の情報が余りにも不足しています、だからこそ渡来人を積極的に受け入れる政策をとったのでしょう。
 

情報収集のため行われていた遣唐使けんとうし


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 大伴部 博麻おおともべ の はかまは、筑後ちくごの国の上陽咩郡かみつやめのこおりの出身で、飛鳥時代の兵士です。

 天智てんち2年(663年)、百済復興くだらふっこうのため出征しゅっせいした日本兵たちは白村江はくそんこうの戦い」大敗たいはいきっしたあと、

とう軍に捕らえられた者は捕虜ほりょとなり長安ちょうあんへ連行さられました。

 その中に大伴部 博麻おおともべ の はかまも居たのです。
 

 その時の長安ちょうあんには、遣唐使けんとうしとしてとうへ来ていた人たちも、捕虜ほりょとなって居ました。

 西暦670年、その内の4人、土師 連 富杼はじ のむらじ ほど氷 連 老ひ のむらじ おゆ筑紫 君 薩夜麻つくし のきみ さちやま弓削 連 元宝ゆげ のむらじ げんほう が、

 とう王朝による日本侵略しんりゃくくわだてを知ります。しかし……

 「捕虜ほりょの身では、着る物も食べる物も無く、これでは日本へ帰り情報を知らせる事も出来ない、」
 

 4人がやみきれずにいると、
 

 大伴部 博麻おおともべ の はかまが彼らへ対し、こう申し出たのです。

 「私は、奴隷どれいとして自分を売ります、だからその資金しきんで貴方がた4人は帰国して、

  とう侵略しんりゃく計画を日本へ知らせて欲しい!」
 

 翌年よくとし671年に4人は対馬つしまへ到着することが出来ました、そしてとうの日本侵略しんりゃく計画は太宰府だざいふへもたらされます。
 

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