このように、戦も強く永きに渡りチャイナを苦しめてきた歴史有る高句麗が滅んだことで、東アジアの均衡は崩れます。
もはや朝鮮半島に日本の味方は無いかのように見えました、ただし「白村江の戦い」で直に日本と交戦することの無かった新羅は、
使者を日本へ送り続け、唐王朝へ完全に飲み込まれまいと、バランスを図っていたのです。
一方、日本は情報収集のために続けて来た「遣唐使」の学僧たちを捕虜にされるなど、情報の無い状態で戦後交渉のための遣唐使を三度に渡り送ります。
天智4年(665年)、天智6年(667年)帰国。
天智6年(667年)、天智7年(668年)帰国。
天智8年(669年)、帰国不明。
大宝2年(702年)になるまで、実に33年の間、遣唐使が再開される事は有りませんでした。
日本は海外の情報が余りにも不足しています、だからこそ渡来人を積極的に受け入れる政策をとったのでしょう。
情報収集のため行われていた「遣唐使」
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大伴部 博麻は、筑後国の上陽咩郡の出身で、飛鳥時代の兵士です。
天智2年(663年)、百済復興のため出征した日本兵たちは「白村江の戦い」で大敗を喫したあと、
唐軍に捕らえられた者は捕虜となり長安へ連行さられました。
その中に大伴部 博麻も居たのです。
その時の長安には、遣唐使として唐へ来ていた人たちも、捕虜となって居ました。
西暦670年、その内の4人、土師 連 富杼・氷 連 老・筑紫 君 薩夜麻・弓削 連 元宝の児 が、
唐王朝による日本侵略の企てを知ります。しかし……
「捕虜の身では、着る物も食べる物も無く、これでは日本へ帰り情報を知らせる事も出来ない、」
4人が悔やみきれずにいると、
大伴部 博麻が彼らへ対し、こう申し出たのです。
「私は、奴隷として自分を売ります、だからその資金で貴方がた4人は帰国して、
唐の侵略計画を日本へ知らせて欲しい!」
翌年671年に4人は対馬へ到着することが出来ました、そして唐の日本侵略計画は太宰府へもたらされます。
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