西暦670年、チベットの吐蕃王国が唐王朝の安西大都護府管下に在った主要な唐軍の駐屯地、
安西四鎮を攻め落とすと、天山南路を遮断しました。
この事で唐軍は10万を率い反撃に出ますが、吐蕃王国40万の大軍に青海湖南の「大非川の戦い」で大敗北してしまいます。
空気の薄いチベット高原で、一般の兵士では高山病になってしまい、チベットの吐蕃人に勝てる者など居るはずも無いのでしょう。
このタイミングで新羅も高句麗遺民軍と組んで、唐王朝へ対し「唐・新羅戦争」を起こすと、
東西の両面作戦を避けるため、唐は朝鮮半島からさえ一時撤退してしまいました。
新羅は、唐軍が吐蕃軍に大敗北した情報を持っていたのかも知れません。
情報とはそれほど貴重な物なのです。
唐王朝を退ける事が出来たのはその情報を活用して行動した成果でしょう。
唐王朝が朝鮮半島から撤退した結果、日本に対する侵略計画も取り止めとなりました。
チベット国旗「雪山獅子旗」
「西蔵」はチベットの漢字表記です。
チベット高原の地下水や氷河を源泉とする主要な河川は、インダス川・ガンジス川・ブラマプトラ川・エーヤワディー川・サルウィン川・メコン河・長江・黄河などです。
チベットを中華人民共和国に支配されると、これらの川が流れる国々にとって『水』をコントロールされますので、勝手なことが出来ないように国際的な取り決めが必要です。
持統4年(690年)、身体を張って情報を日本へもたらした大伴部 博麻は、顔見知りになった新羅の使者に連れられて30年振りに帰国します。
持統天皇はその愛国心を勅語をもって讃えました。
新羅は日本人捕虜を連れ帰ることで日本へ恩を売ったのでしょうか。
とにかくこの頃の新羅は常に戦略的に動いていたように見えます、日本と組んで唐王朝に対抗することも考えていたのかも知れませんし、
「唐・新羅戦争」の最中も唐王朝へ、新羅は使者を送り続けました。
もちろん、チベットの吐蕃王国がここで唐王朝に大勝したのは、周辺国にとって大変ラッキーな出来事だったのです。
唐王朝はチベット吐蕃王国へ唐の皇女である文成公主を送りました、これは匈奴・モンゴルに対して行なった懐柔策と同じです。
その後、西暦698年に高句麗の残党により渤海が建国されると、渤海国の使節は神亀4年(727年)奈良の平城京へ通交し、
翌年には聖武天皇へ国書と献上品が贈られました。
この交易は軍事同盟では無かったものの渤海国が西暦926年、契丹に滅ぼされるまで続きます。
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