秦氏千年の計14 チベットの吐蕃王国

 西暦670年、チベットの吐蕃とばん王国とう王朝の安西大都護府管下あんざいだいとごふかんかに在った主要なとう軍の駐屯地ちゅうとんち

安西四鎮あんせいしちんを攻め落とすと、天山南路てんざんなんろ遮断しゃだんしました。

 この事でとう軍は10万をひきい反撃に出ますが、吐蕃とばん王国40万の大軍に青海湖南せいかいこなん大非川だいひせんの戦い」大敗北だいはいぼくしてしまいます。
 

 空気の薄いチベット高原こうげんで、一般の兵士では高山病こうざんびょうになってしまい、チベットの吐蕃とばん人に勝てる者など居るはずも無いのでしょう。
 

  このタイミングで新羅しらぎ高句麗こうくり遺民いみんと組んで、とう王朝へ対しとう新羅しらぎ戦争」を起こすと、

東西の両面作戦をけるため、とうは朝鮮半島からさえ一時撤退いちじてったいしてしまいました。
 

 新羅しらぎは、とう軍が吐蕃とばん軍に大敗北だいはいぼくした情報を持っていたのかも知れません。

 情報とはそれほど貴重きちょうな物なのです。

 とう王朝を退しりぞける事が出来たのはその情報を活用して行動した成果でしょう。
 

 とう王朝が朝鮮半島から撤退した結果、日本に対する侵略しんりゃく計画も取り止めとなりました。

 

チベット国旗「雪山獅子旗せつざんししき


西蔵せいぞうチベットの漢字表記です。


チベット高原
の地下水や氷河を源泉げんせんとする主要な河川かせんは、インダス川・ガンジス川・ブラマプトラ川・エーヤワディー川・サルウィン川・メコン河・長江ちょうこう黄河こうがなどです。
チベットを中華人民共和国に支配されると、これらの川が流れる国々にとって『水』をコントロールされますので、勝手なことが出来ないように国際的な取り決めが必要です。


 
 持統じとう4年(690年)、身体からだを張って情報を日本へもたらした大伴部 博麻おおともべ の はかまは、顔見知りになった新羅しらぎの使者に連れられて30年振りに帰国します。

 持統じとう天皇はその愛国心を勅語ちょくごをもってたたえました。

 

 新羅しらぎは日本人捕虜を連れ帰ることで日本へ恩を売ったのでしょうか。

 とにかくこの頃の新羅しらぎは常に戦略的に動いていたように見えます、日本と組んでとう王朝に対抗することも考えていたのかも知れませんし、

とう新羅しらぎ戦争」の最中もとう王朝へ、新羅しらぎは使者を送り続けました。
 

 もちろん、チベットの吐蕃とばん王国がここでとう王朝に大勝したのは、周辺国にとって大変ラッキーな出来事だったのです。

 とう王朝はチベット吐蕃とばん王国へ唐の皇女こうじょである文成公主ぶんせいこうしゅを送りました、これは匈奴きょうど・モンゴルに対して行なった懐柔策かいじゅうさくと同じです。
 

 その後、西暦698年に高句麗こうくりの残党により渤海ぼっかいが建国されると、渤海ぼっかい国の使節は神亀じんき4年(727年)奈良の平城京へいじょうきょうへ通交し、

翌年には聖武しょうむ天皇へ国書こくしょ献上品けんじょうひんが贈られました。

 この交易は軍事同盟では無かったものの渤海ぼっかい国が西暦926年、契丹きったんに滅ぼされるまで続きます。
 

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